「またヴィンセントは襲われる」©2023 - Capricci Production - Bobi Lux - GapBusters - ARTE France Cinéma - Auvergne-Rhône-Alpes Cinema – RTBF

「またヴィンセントは襲われる」©2023 - Capricci Production - Bobi Lux - GapBusters - ARTE France Cinéma - Auvergne-Rhône-Alpes Cinema – RTBF

2024.5.05

目が合ったら殺される!? 先読み的中率0% 究極の不条理スリラー 「またヴィンセントは襲われる」

ハラハラドキドキ、謎とスリルで魅惑するミステリー&サスペンス映画の世界。古今東西の名作の収集家、映画ライターの高橋諭治がキーワードから探ります。

高橋諭治

高橋諭治

このところスリラー界では、やけにストレンジな映画が目につく。犯罪もの、スパイもの、法廷ものといったオーソドックスなスリラーとはかけ離れ、道理に合わない不可解な出来事を扱った〝不条理スリラー〟というべき異色作が次々と公開されているのだ。
 
例えば、カナダのブランドン・クローネンバーグ監督がクロアチアで撮影を行った「インフィニティ・プール」(2023年)がそのひとつ。孤島のリゾート地を訪れたスランプ中の作家がたどる悪夢のような運命を描いたこの映画は、クローン人間を用いた死刑の代替執行制度、登場人物の異常な衝動や性癖などを、生々しい特殊メークを駆使して映像化したディストピア・スリラーだった。

観客あざ笑う展開の怪作

同じく先の4月に封切られたオランダの鬼才アレックス・ファン・バーメルダムの「No.10」(21年)は、「インフィニティ・プール」以上にド肝を抜かれる怪作だった。小さな劇団の稽古(けいこ)場に通っている舞台俳優の日常があれよあれよという間に変質していき、後半にはあらゆる観客の予想をあざ笑うかのようなシュールな展開が待ち受ける。類似作品がちょっと思い浮かばない、まさに究極の不条理映画だった。

今月もまた、ヨーロッパ発の2本の不条理スリラーが新たにお目見えする。フランス映画「またヴィンセントは襲われる」(23年)と、デンマーク・オランダ合作の「胸騒ぎ」(22年)だ。本稿ではステファン・カスタン監督の長編デビュー作「またヴィンセントは襲われる」を紹介する。「胸騒ぎ」については別の記事を参照していただきたい。


突然襲いかかる実習生

映画は何の変哲もないオフィスの日常シーンから幕を開ける。リヨン在住の主人公ヴァンサン(ヴィンセントのフランス語読み)は、その会社に勤めるグラフィックデザイナーなのだが、仕事中に若い実習生に襲われてしまう。何の前触れもなく、ノートパソコンを頭や顔面に振り下ろされたのだ。すると後日、今度は経理担当の同僚社員が襲いかかってくる。ペン先でヴァンサンの手首をグサリグサリとめった刺し。どちらのケースもヴァンサンには自分が暴力をふるわれる理由が思い当たらず、加害者の2人は襲撃時の記憶を失っていた。
 
どこかおびえたような瞳が印象的なヴァンサンはあまり目立たないタイプの凡人であり、理不尽な暴力事件の被害者になっても告訴したりせず、何事もなかったようにやり過ごそうとする。ところがその後、ヴァンサンはオフィスの外でも見知らぬ人々に襲われることになる。しかも相手は性別も年齢層もバラバラで、殺意さえみなぎらせて迫ってくるのだ。もはやヴァンサンは街なかですれ違うすべての通行人が恐ろしくなり、父親が所有する田舎の別荘へと避難するのだが……。
 

ゾンビでもエイリアンでもなく

登場人物が人間の姿をした敵に突然襲われる映画と言えば、真っ先にゾンビものが思い起こされる。ヴァンサンも劇中で「ウイルスのせいか?」と疑うのだが、そのような報道や兆候は見当たらない。もうひとつは「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」(1956年)に代表される宇宙人による地球侵略ものだ。ジャック・フィニイのSF小説に基づくこの映画は、親しい隣人や友人がエイリアンによって表情や感情が欠落した複製人間にすり替えられていく恐怖を描いていた。しかし、本作の舞台となるリヨンの街にエイリアンが暗躍している気配はどこにもない。
 
カスタン監督は私たち観客の脳裏にまたたく「?」の答えを一切提示せず、ヴァンサンの絶望的なサバイバル劇を展開させていく。どうやらヴァンサンが襲われるきっかけは、相手と〝視線が合う〟ことらしい。護身用のスプレー、テーザー銃、手錠を購入したヴァンサンは、やがて自分と同じ境遇の人たちが存在することを知る。いくら情報を収集しても襲われる理由は不明のままだが、なぜか犬を飼うと炭鉱のカナリアさながらに危険を察知してくれることが判明する。こうした奇妙な味わいのディテールが実に面白い。全編に流れるエレクトリックなスコアも緊張感を高め、スリルとブラックユーモアが混じり合った映像世界から目が離せない。

犬の相棒スルタンも好演

そしてこの謎だらけのスリラーは、後半に至ると黙示録的なパニック映画へと発展していくのだが、そのさなかにヴァンサンはワケありのウエートレス、マルゴーと恋に落ち、さらなるおかしな迷走を強いられていく。ひょっとするとこの映画は、仕事も家も放り捨てて命がけのサバイブを繰り広げるはめになった孤独な男の悲劇を通して、人間の心のよりどころ、すなわち生きる意味を問いかける哲学的な不条理劇なのかもしれない。そうした解釈は、すべて観客に委ねられている。

いずれにせよ、政治的分断やテロといった不穏な世相に覆われた現代の映し鏡のようなこの映画は、第76回カンヌ国際映画祭の批評家週間に選出され、ヨーロッパ映画賞やセザール賞のノミネーションにも名を連ねた。主演俳優カリム・ルクルーがにじませる人間の切実さと滑稽さ、スルタンと名付けられた犬のひょうひょうとした助演も絶品の一作である。

ライター
高橋諭治

高橋諭治

たかはし・ゆじ 純真な少年時代に恐怖映画を見すぎて、人生を踏み外した映画ライター。毎日新聞「シネマの週末」、映画.com、劇場パンフレットなどに寄稿しながら、世界中の謎めいた映画、恐ろしい映画と日々格闘している。