「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。
2022.2.14
毎日映コンの軌跡① 「センセーション」は看板倒れ
昭和10(1935)年、毎日新聞の前身「東京日日新聞」は、「全く未曽有の企て」で映画界に「旋風のようなセンセーション」を起こした。「全日本映画コンクール」の開催である。日本映画の向上を目的に、映画会社に呼びかけて未公開の新作を出品してもらい、一度に上映して審査し賞を決めようというのだ。映画はようやく音が付いたばかり。当時の大手4社が、日活「うら街の交響楽」(渡辺邦男監督)▽松竹「若旦那春爛漫(らんまん)」(清水宏監督)▽新興「男・三十前」(牛原虚彦(きよひこ)監督)▽PCL(東宝の前身)「放浪記」(木村荘十二(そとじ)監督)を出品した。
5月14日、東京・日本青年館で上映し、その場で審査した。審査員は長谷川如是閑(にょぜかん)、山田耕筰、久米正雄、菊池寛らそうそうたる7人。夜には、東日コンクール賞「うら街の交響楽」▽俳優演技特賞 夏川静江(「放浪記」)――などが決まった。監督や俳優の舞台あいさつもあって盛況だったが、内容は充実していたとは言い難い。東日紙面では、各社の「秘策を練った自信作」になっているが、「若旦那春爛漫」は完成が間に合わず、上映されたのは半分だけ。
選評では「うら街の交響楽」も「もっとスマートに出来上がらなかったか」(久米)、「最初のところは失敗」(菊池)とほめられていない。「映画年鑑」の総括になると「その意図やよく、その結果や惨憺(さんたん)たるもの……愚劣な作品ばかり」とさんざんだ。当時の日本映画は技術、内容とも米ハリウッドに及ばず、批評家は厳しい目を向けていたのだ。
同年12月には第2回が開催され、PCLの「噂(うわさ)の娘」(成瀬巳喜男監督)が、翌36年8月の第3回では「風流深川唄」(清瀬英次郎監督)が東日コンクール賞を受賞。しかし同年の2・26事件に続いて37年7月には盧溝橋事件が起き、時局は緊迫化。戦時体制に入ってコンクールは立ち消えになる。ようやく平和が訪れた46年、映画賞は「毎日映画コンクール」と名前を変えて復活する。