「カンフーハッスル」©2004 Columbia Pictures Film Production Asia Limited. All Rights Reserved.

「カンフーハッスル」©2004 Columbia Pictures Film Production Asia Limited. All Rights Reserved.

2024.1.31

祝・成人式 7歳児を熱狂させた「カンフーハッスル」とコワモテ2人の悪ふざけのあの映画 勝手に2本立て

毎回、勝手に〝2本立て〟形式で映画を並べてご紹介する。共通項といってもさまざまだが、本連載で作品を結びつけるのは〝ディテール〟である。ある映画を見て、無関係な作品の似ている場面を思い出す──そんな意義のないたのしさを大事にしたい。また、未知の併映作への思いがけぬ熱狂、再見がもたらす新鮮な驚きなど、2本立て特有の幸福な体験を呼び起こしたいという思惑もある。同じ上映に参加する気持ちで、ぜひ組み合わせを試していただけたらうれしい。

髙橋佑弥

髙橋佑弥

さて今夜は何を見ようか……と考えはじめたは良いが、いつまでたっても決められないことがある。配信サービスなどで即座に見ることができる映画は数多く、そのなかには見たい映画も少なくないのだから、そこから選んでしまえばよいとわかっていながら候補ばかりが膨らみ続けて、絞りこむことができないのだ。ああでもない、こうでもないと悩んでいるうちに数時間経過、なんてことも珍しくない。思うに、選択肢が多すぎるのであろう。だから無限に目移りしてしまうのである。

そこで、さっそく対策を考えた。製作年で縛りを設けるのはどうだろう。「迷ったら○○年の映画を見る」と決めておけば、ぐっと候補も減るはずだ。

……なんてことを考えながら、年始に町を歩いていると成人式の参加者がちらほら。今年成人=20歳を迎えるのは2004年生まれか、などと感慨にふけっていたら、ふと20歳になる映画が見たくなった。主人公が20歳になる映画ではない。今年20歳の作品――すなわち04年の作品である。作品の成年をお祝いしようというわけだ。

「能鷹隠爪」「大器晩成」のロマン

自らと04年映画の関わりを振り返れば、まっさきに思い浮かぶのがチャウ・シンチー監督・脚本・製作・主演作「カンフーハッスル」。日本公開は05年1月1日で文字通り「お正月映画」だから、今年1回目の記事で取り上げるにも最適と言える。筆者は当時7歳。いまとなっては、どこで見たかも覚えていない。けれど見たあとで無性にカンフーを習いたくなったことだけは覚えている。年末年始で退屈していた幼い子供にとって映画館での鑑賞は一大事、かつ頻繁に映画館に行く習慣も我が家にはなかったはずなので、忘れがたく甘美な一日として、この映画のことばかり考えていた時期すらあったのではないか。
 
このたび久方ぶりに見直してみて、おぼろげながら当時の感覚をつかめたような気がする(都合の良い捏造=ねつぞう=かもしれないが)。というのも、この映画は全編が「能鷹隠爪(のうよういんそう)」と「大器晩成」のロマンにあふれていて、そこに魅せられたのではないかと思うのだ。ボロボロの集合住宅に暮らす貧しい人々がじつは武術の達人ぞろいだったり、単なるチンピラだったはずの主人公が終盤で突如才能を開花させたりする展開は、外見ないし現状からは判断できぬ潜在的な可能性を賛美していて、見ていて心地がいい。大物にはなれないかもしれないけれど、生業の傍ら「じつは実力者」くらいならイケるんじゃないか。厳しい修行はしたくないけど、いつか眠っていた才覚が発揮されたりするのではないか。と、いうわけだ。


前半と後半のシフトチェンジ

とはいえ、あらためて見ると本作は前半と後半でテイストがかなり違う。律義にも上映時間の折り返し地点あたりで、ジャンルが切り替わるのだ。ひとりのチンピラを媒介としながら暴力組織VS貧困住宅をひとまず正面から描いていくのが前半部とするなら、後半部は琴の音色で人をあやめる刺客などが登場して荒唐無稽(むけい)上等の超能力バトルと化していく。

正直なところ後半がタイクツ、というのが再見の偽らざる感想である。前半に活躍した隠遁(いんとん)武術家たち(人足、仕立屋、粥麺=かゆめん=屋)が続々と倒されたあと、最終的に最強の悪党を成敗するのが選ばれし者=主人公というのは、前半の人物造形をどこか矮小(わいしょう)化してしまっていないだろうか。かつての7歳児はたしかに熱狂したはずなのだが、もはや「大器晩成」が望み薄だからか、いまの筆者には長年研鑽(けんさん)を積んで武道を極めながら、ひけらかすことなくつつましい日々を送る彼らより、突然才能が花開いた主人公が遇されるクライマックスに歯がゆさを感じずにはいられない。だから最も高揚した瞬間は、前半の見せ場ということになる。

素晴らしき救出の一瞬

集合住宅に暴力団員が大挙して押し寄せ、住民らを容赦なく無慈悲に痛めつける。手にはオノ。殺戮(さつりく)も辞さない構えだ。ついには、ある母子にガソリンがどばどばと浴びせられ、ライターが投げられる……危うし! と、ここで宙を舞うライターが中空でパシッと受け止められて、引火の悲劇は回避される。

素性を隠していた武術の達人が、耐えかねて即座に行動を起こすこの一瞬が素晴らしい。彼がなぜ、これまで武術の達人であることを隠していたのかは描かれない。それは、この場面で共闘することになる2人も同様である。だが、きっとなにか重大な理由なり信条があったのだろうことは容易に察しがつく。なにせ彼らは皆一様に、家賃を滞納し、大家になじられ、苦しい生活にあえいでいるのだ。その力量で、より豊かな生活もできたろうに。

これまで貫徹してきた価値観を打ち捨てる、その瞬間に、何の説明もない。それが美しい。考える余裕も十分にはなく、身体が動いた。その切迫が胸を打つ。ここから始まる、武装した集団をわずか3人で撃退するアクションも見どころだが、予感に満ちたこの一瞬にはかなわない。


「修羅の血」©2003 GPミュージアム

引火回避でつなげてみれば 「修羅の血」

油にまみれた身体に降りかかる引火の危機、という限定的状況で、駆け足ながらもう1本ご紹介したい。もちろんこちらも04年の映画だ。望月六郎監督作「修羅の血」である。

一言でまとめるなら、本作で描かれるのは由緒ある鳶(とび)職人VS暴力団の横暴。もともと友好関係にあった両組織は町の平和を維持してきたが、暴力団組長の代替わりによって全てが一変するのだ。鳶職人たちは町のためにも暴力団と対峙(たいじ)することを余儀なくされる。

情に厚い鳶職の親分を演じるのは竹内力。彼と妻が捕らえられ、縛られてガソリンをかけられ、そこにマッチが……という展開が前述の通り本作にもある。もちろん助けがやってくるわけだが、後半の見せ場なので正体は明かさずにおこう。

むしろ特筆すべきは、この場面の舞台が夜のゴーカート場であることだ。なぜゴーカート?と疑問に思ったあなたは正しい。とくに必然性はないのである。しかも救出直後にゴーカートのチェイスシーンまであるのだから、頭の中は「?」でいっぱいだ。


悪ふざけと創意工夫の綱渡り

しかしこの意外性はほんの一例に過ぎない。本作は、刀を構える竹内力と射るような眼光の松方弘樹の表情がすごみをきかせるコワモテなDVDパッケージのイメージと、鳶職人VS暴力団という粗筋から想像しうる内容と齟齬(そご)をきたすほどの驚きであふれているのである。むしろこの、でたらめさというか、奇抜さというか、悪ふざけと創意工夫の中間を綱渡りしているかのようなスリリングな愉快さこそが「修羅の血」の美点といっていい。

おそらく松方弘樹と竹内力が主演というだけで見たくなる人はもう見ているはず。その「ウリ」に、あまり食指が動かない人にこそだまされたと思って一度見てみてほしい。

この2本を併せ見ると、04年は素晴らしい年であったと思えてくる(かもしれない)。

と、ここまで書いたところで、今更ながら現在の成人年齢が18歳であるという事実を思い出してしまったのだが、06年映画はまたいずれの宿題ということにしておこう。では皆さま、今年もよろしくお願いいたします。

「カンフーハッスル」「修羅の血」ともU-NEXTで配信中。

ライター
髙橋佑弥

髙橋佑弥

たかはし・ゆうや 1997年生。映画文筆。「SFマガジン」「映画秘宝」(および「別冊映画秘宝」)「キネマ旬報」などに寄稿。ときどき映画本書評も。「ザ・シネマメンバーズ」webサイトにて「映画の思考徘徊」連載中。共著「『百合映画』完全ガイド」(星海社新書)。嫌いなものは逆張り。