「筑豊の炭鉱王」伊藤伝右衛門の旧邸宅

「筑豊の炭鉱王」伊藤伝右衛門の旧邸宅

2022.3.25

原点 北九州と高倉健さん 上

2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。

ひとしねま

長谷川容子

2014年11月に83歳で亡くなった高倉健さんのメモリアルイベント「健さんに逢いたくて」(毎日新聞社などの実行委員会主催)が翌15年11月15日、北九州市小倉北区の北九州国際会議場で開かれました。このイベントの事前に西部本社版にて掲載された特集の1回目。高倉さんの原点ともいえる北九州での足跡を振り返ります。全国では蔓延防止等重点措置も解除されました。旅情も感じてもらいたいと再掲載しました。
*()内の年齢は掲載当時のもの
 

転校生がやってきた

1941年春、遠賀郡香月町(現・北九州市八幡西区)の池田国民学校に転校生がやってきた。名は小田剛一(たけいち)。後の映画俳優、高倉健さんだ。4年生に編入した。「ひょろっと背が高くて色白の優男。転校生は珍しかったから目立ちましたね」。同級生の千々和延吉さん(84)=同区=は振り返る。
高倉さんは現在の福岡県中間市生まれ。中間小に入学後、2年の時に肺浸潤で1年近く休学する。復学の際、遠賀郡折尾町(同)の本城小へ転校し、その後疎開で香月に引っ越してきた。

自慢の父

ズック靴や下駄(げた)の級友の中で、小田少年は革靴だった。他にも珍しいものをいろいろと持っていて、中でも千々和さんが忘れられないのが絹糸でつくられた黒繻子(しゅす)のまわしだ。「校庭の相撲場に『おやじのだ』と持ってきた。プロの相撲取りじゃないと持たんような立派なもの。驚いたけど、後にお父さんを見て納得しました」
高倉さんの父、敏郎さんは筑豊の炭坑王と呼ばれた伊藤伝右衛門が経営する中鶴炭鉱や宝珠山炭鉱の幹部社員だった。労務担当者として人事権を持ち、数千人の鉱員を管理していたという。神社の宮相撲で横綱をはった偉丈夫で、「亀ケ嶋」のしこ名も持っていた。高倉さんにとって自慢の父だったのだろう。「父が海軍の駆逐艦に乗っていたとか、仕事で満州(現中国東北部)に行っていたことなどを話してくれましたね」と千々和さん。

「戦争と“破竹卵(はちくらん)」

千々和さんは4年前、高倉さんから手紙を受け取った。「同窓会の写真に貴方の名前を見つけ、懐かしく思い出しました。最近まで連載しておりましたカード会社の冊子に貴方のことを書いておりますので、ご笑読いただければ幸甚です」
冊子には「戦争と“破竹卵(はちくらん)」と題した高倉さんのエッセーが載っており、千々和さんらと過ごした少年時代の思い出が描かれていた。
<晩秋、稲刈りの終わった田でたき火が始まった。仲間が縦割りにした長い竹の節と節の間に卵を二、三個割り入れ、フライパンのように器用に動かして卵を焼き出した。半熟になった熱々の卵を皆で分け合って食べた>
千々和さんは「食べ物がなかった時代。小田君と一緒に、こんなにうまいものがあるのかと夢中で食べました」と懐かしむ。
同級生が60人以上いた中から、高倉さん、千々和さんら4人は旧制東筑中(現・県立東筑高)に進むことになった。千々和さん方で開いたお祝い会。記念写真に写るあどけない表情に、後の大スターの片りんはまだない。(15年11月10日 西部本社版紙面より)

旧伊藤伝右衛門邸
http://www.kankou-iizuka.jp/denemon/
〒820-0066 福岡県飯塚市幸袋300番地
■福岡インターから 約45分
■八幡インターから 約40分
■筑後小郡インターから 約50分
■JR 福北ゆたか線新飯塚駅下車徒歩約30分
■西鉄 「幸袋・旧伊藤伝右衛門邸前」バス停下車後 徒歩2分
   「飯塚バスターミナル」もしくは「新飯塚駅」バス停留所から「赤池工業団地」行きに乗車

ライター
ひとしねま

長谷川容子

毎日新聞記者

カメラマン
ひとしねま

井上元宏

毎日新聞記者

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