毎日新聞のベテラン映画記者が、映画にまつわるあれこれを考えます。
2023.4.12
業界改革へ一歩
馬小屋のセットを検分に来た溝口健二監督、「馬の小便の臭いがしませんね」。その一言で撮影は中止。リアリズム追求で有名だったが「コンテがうまくいかんからや」とスタッフは陰でぼやいた。衣笠貞之助監督は、夜間撮影が大好き。昼間はブラブラして夕方になってようやくカメラを回し始める。撮影は連日深夜に及んだ。
古い映画人から直接聞いた逸話だ。こんな迷惑が懐かしそうに語られたのは、監督の人柄とか時間が浄化したからというだけではない。撮影現場での労働に、きちんと対価が支払われていたからだ。
1950年代、映画はほとんどが映画会社の撮影所で作られ、スタッフは社員だったし労働組合も力があった。撮影が定時を超過すれば割り増しの残業代が付く。50年代初めの大映なら午後10時までは昼間の1.25倍、午前0時までは1.5倍、それ以降は1.7倍といった具合。「衣笠組に付く1カ月は、残業代で給料が3倍」なんてこともあった。
撮影所システムに支えられた、こんな〝いい時代〟は長く続かず、60年代終わりには映画の斜陽化が始まり、製作費削減と人員整理が繰り返され、やがてシステムは崩壊し労働組合は弱体化、職能団体にも所属しないフリーが増え、報酬の裏付けがないまま精神論に支えられた長時間労働だけが残って現在に至っている。
長く続いた悪弊を断ち切ろうと、4月1日から映画業界団体の「日本映画制作適正化機構」(映適)による「作品認定制度」が始まった。映適は、契約書の交付▽撮影時間は1日あたり13時間以内▽週1日以上の撮休日▽セクハラ、パワハラ対策――などを定めたガイドラインを作り、適合した撮影だったと認められれば「映適マーク」を交付する。島谷能成理事長は「いずれは映倫マークのような位置づけに」と期待する。
ちなみに映倫マークは、同じく業界団体である「映画倫理機構」が審査して交付する。映画館のほとんどが加盟する全国興行生活衛生同業組合連合会が映倫マークのない映画を上映しないよう申し合わせているから、一般公開しようとすれば実質的に不可欠だ。映適マークが普及すれば、不適正な条件で撮影された映画は駆逐され、業界が健全化する……はずだ。
現状では財政的な裏付けが不安だし、制度が中小規模作品を圧迫する可能性もある。お手盛りの審査で形骸化しないのか。未確定部分が多く、見切り発車感は否めない。しかしバラバラの業界が一つのテーブルに集まり、4年も議論してようやく発足した制度である。業界改革は待ったなしだ。業界だけでなく映画ファンも注目し、広く議論を続けて実効性を持たせ、真の「日本映画黄金期」を再来させてほしい。