「トップガン マーヴェリック」© 2022 PARAMOUNT PICTURES. CORPORATION ALL RIGHTS RESERVED.

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2022.10.24

優れた続編に〝予習〟はいらない 「トップガン マーヴェリック」:勝手に2本立て

毎回、勝手に〝2本立て〟形式で映画を並べてご紹介する。共通項といってもさまざまだが、本連載で作品を結びつけるのは〝ディテール〟である。ある映画を見て、無関係な作品の似ている場面を思い出す──そんな意義のないたのしさを大事にしたい。また、未知の併映作への思いがけぬ熱狂、再見がもたらす新鮮な驚きなど、2本立て特有の幸福な体験を呼び起こしたいという思惑もある。同じ上映に参加する気持ちで、ぜひ組み合わせを試していただけたらうれしい。

髙橋佑弥

髙橋佑弥

シリーズ構成の映画を見るとき、どうすべきか迷うことがある。もちろん、過去作を見ているのであれば問題はなにもない。ただ、気になった新作が、もしも見たことのないシリーズの途中の作品だったら?
 
むろんあらかじめ過去のシリーズを見てから目当ての作品を見るというのが賢明な〝正解〟ではあるのだろうが、「新作そのものは気になるけど、これまでの作品を見ていない(そして、今から見るのは腰が重い)」という状況は、そう珍しくもない、しかし切実な問題であり、個人的には無責任ながら、ひとまず気にせずに新作から見てしまうことを勧めたい。


 

シリーズ過去作、見るべきか見なくていいか

意見が分かれるところだろうが、個人的には今夏公開された「トップガン マーヴェリック」(2022年)もこれにあてはまる。いうまでもなく、本作は「トップガン」(1986年)の〝続編〟であり、過去作の要素に依拠している見どころも少なくない。
 
じっさい(本作に限らず、あらゆるシリーズに言えることだが)シリーズを見ている人に助言を求めると、おおかた「前作を見ておくが吉」という結論となるはずだ。「前作で起こることが本作でも重要で……」とか「前作の登場人物がここぞという場面で……」とか、たしかに、ごもっとも。だが、ほんとうにそうなのだろうか。
 
すぐれた映画ほど、人物の性格描写は映画のなかできちんとなされているものである。シリーズものであっても、その映画自体のなかで改めて人物たちは息づいて、特段の説明がなくとも、どういった人物なのか把握することはたやすいはずなのだ(そうであるべきだろう)。極論かもしれないが、過去(=シリーズでの出来事)への言及は「昔、なにか重要なことがあったのだな」くらいに思っておけば良いだろう。


 

ミッションとシミュレーション

おおまかな構造の次元で述べるならば、「トップガン マーヴェリック」の面白さの核心は、シミュレーション(=訓練)とミッション(=本番)という流れの妙にあるといっていい。
 
ある極秘作戦へ向けて進んでいく本作の大部分は、その難事の遂行を目指した予行練習=シミュレーションに割かれ、トム・クルーズ演じるベテランパイロットの主人公マーヴェリックが教官となって若きエリートたちを鍛えてゆく展開なのだが、見ながらこの面白さは一体なんなのだろうと不思議に思った──というのも、これは所詮〝練習〟なのである。
 
厳重な警備を施された敵の要塞(ようさい)に監視をかいくぐって侵入するため分刻みの厳密さと危険なまでの猛スピードが要求されるタイムアタック的難関飛行任務へ向けて、何度も執拗(しつよう)かつ丁寧に描かれる模擬コースでのシミュレーションは失敗の連続で、たしかにだんだんと上達が感じられる心地よさもあるが、それもまた訓練での出来事にすぎないのだ。たとえ訓練で成功したとて、本番でうまくいくとは限らないのだし、むしろ映画的にはあっさりうまくいってしまっては困るともいえる。見せ場であるはずの本番が、練習場面の反復、焼き直しに過ぎないものになってしまうからだ。


 

計画は必ず狂う

ゆえに、シミュレーションは最終的に裏切られねばならないさだめにある。どのみち本番ではきっと計画が狂うのだろう……という予感を、見る者もどこかで感知しているからこそ、〝練習〟も別種の〝本番〟として緊張感を持って味わうことができるのかもしれない。じっさい「トップガン マーヴェリック」でもシミュレーションは2度裏切られる。まず1度目はあまりの難度に不可能だと判断が下されたとき。2度目は作戦本番において、シミュレーションの〝その先〟が描かれるときである。後者においては、予行練習で省かれていた作戦遂行後=帰還時の危機が登場人物──ひいては観客である私たち──を待ち受けることになる。
 
任務の要所は成功し、あとは帰投するだけという段になって、主人公たちは敵の猛攻撃に遭う。じつのところ、この危機はごく序盤の段階で一度「生き延びても帰途は空中戦の連続」というセリフで予期されているのだが、シミュレートされることはない。そして、セリフの記憶が薄れたころに不意打ちとして現れるのだ。
 

裏切られるから練習が生きる

敵陣の真っただ中、雪に覆われた白い山々の狭間(はざま)で、四方八方から爆撃が間隙(かんげき)なく続き、主人公ら4機は死に物狂いでそれらをかいくぐろうとする。仲間内で交わされる警告の無線が幾つも重なり、必死の形相のパイロットたちの顔が矢継ぎ早に映されたのち、提示される俯瞰(ふかん)の修羅場の画(え)。この簡潔な非情さがすばらしい。
 
まず目標設定があり、手に汗握るシミュレーションを経て、本番で予想外の事態が待つ──いささか結果論めいた逆説ではあるが、裏切られるからこそ前段の予行練習場面が生きてくるのだし、むろん逆もまたしかり。ある意味で定石といえる構造ではあるが、安定した話運びの面白さが土台としてあるなかで、だからこそドラマ部分の厚みも増す。そして、その豊かな充実ゆえに、前作を知らずに見た人にとっても十分通用する魅力がある。


 「ワイルドスピードMEGAMAX」© 2011 Universal Studios. All Rights Reserved.
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シリーズ5作目ではあるが……「ワイルド・スピード MEGA MAX」

同様の面白さを備えたシリーズものの作品として、駆け足にはなるが最後にもう1例「ワイルド・スピード MEGA MAX」(11年)を挙げておきたい。本作は、01年に始まった「ワイルド・スピード」シリーズの第5作である。当初ストリートレース映画として始まった本シリーズは、次第に変貌を遂げ、いまや超人レーサーたちによる車を用いた犯罪映画となっているが、本作もまさにその路線の一作で、描かれるのは金庫強奪。筋書きは、汚職警官が守っているマフィアの金を警察署から奪うというもので、それだけでもユニークな設定だが、車を用いてどうやるかというアイデアが本作の見どころ。
 
主人公たちは、偵察や情報収集を経て計画を練り上げ、幾度もシミュレーションをする。が、どれもいちいち頓挫するのがかえって新鮮きわまりない。毎回「やっぱりこれでは無理だ」となって、新たな計画を練り、改めて練習=シミュレーションを繰り返す。そして、最終的にはやはり練習通りにいかない。というか、本作の場合は豪快なことに、作戦本番の大半は、当初の計画とは似ても似つかぬ、練習とほとんど関係のないものになるのだ。具体的説明ができないのがもどかしいが、じっさいに見て、この予測不能な豪放さを堪能してほしい(ただし、予告編では部分的に明かされているので注意)。
 

知らぬがゆえの幸福な出会い

余談だが、本稿の前半で述べた「シリーズ何作目であろうと、気になったのならそこから見始めてしまえばいい」という極端な主張は、ほかでもない私自身による本作の鑑賞体験によるものである。私は予告にひかれ、シリーズ5作目であることも知らずに──さすがに1本目だとは思っていなかったはずだが、タイトルに「5」が入っていなかったから──本作を見に行き、そのむちゃな展開のとりこになったのだ。
 
一個人の経験をどこまで他者に当てはめることができるのかという不安はあるが、少なくとも私の場合、「過去の作品を見てから」と予習していたならば同じ感動があったかどうかは自信がない。時には、こんな幸福な出会いもある。

ライター
髙橋佑弥

髙橋佑弥

たかはし・ゆうや 1997年生。映画文筆。「SFマガジン」「映画秘宝」(および「別冊映画秘宝」)「キネマ旬報」などに寄稿。ときどき映画本書評も。「ザ・シネマメンバーズ」webサイトにて「映画の思考徘徊」連載中。共著「『百合映画』完全ガイド」(星海社新書)。嫌いなものは逆張り。

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