「欲望」

「欲望」

2022.12.11

あるはずの意味を求めて迷い込む迷宮 アントニオーニの「欲望」:勝手に2本立て

毎回、勝手に〝2本立て〟形式で映画を並べてご紹介する。共通項といってもさまざまだが、本連載で作品を結びつけるのは〝ディテール〟である。ある映画を見て、無関係な作品の似ている場面を思い出す──そんな意義のないたのしさを大事にしたい。また、未知の併映作への思いがけぬ熱狂、再見がもたらす新鮮な驚きなど、2本立て特有の幸福な体験を呼び起こしたいという思惑もある。同じ上映に参加する気持ちで、ぜひ組み合わせを試していただけたらうれしい。

髙橋佑弥

髙橋佑弥

ある日、売れっ子カメラマンの男は、公園をさまよい、あいびき中の男女をふと撮影する。しかし、撮った女性からは執拗(しつよう)に「フィルムをよこせ」とつきまとわれ、実際に現像してみると何かがおかしい。一見、確かに男女の逢瀬(おうせ)が映っているようなのであるが、その像を幾度となく引き伸ばしに引き伸ばし──原題〝Blow-Up〟はこの行為を指す──てみると、拡大されてざらついた粒子の中に、等倍では見て取れなかった何かが、やはり写り込んでいるようだ……茂みの中にあるこれは、拳銃だ……そしてこっちの白い影は、死体だ。これは一体、何が起きているのだろうか。


「欲望」©WarnerBros.Entertainment Inc

殺人事件はあったのか?

ミケランジェロ・アントニオーニ監督作「欲望」(1966年)の展開を簡単に記述してみるなら、以上のようなものになる。しかし、この「これは一体、何が起きているのだろうか」という疑問に、作品は答えてくれない。謎は、依然として謎のままであり、むしろ謎に魅入られることを描いた映画と言える。主人公は、自らが意図せず撮影した殺人の真相を探求しようとするが、ことごとく何も明らかにはならず、それどころか、映画が終わるころには、撮影したフィルムも、後日発見した死体も、消えてしまうのだ。

本作は、ひたすら意味ありげであり続け、同時にその意味を示さない。隠されている(はずの)〝意味〟への渇望が、きっと再見へと見るものを駆り立てるだろう。しかし、当然そこにも意味など待ちかまえてはいない。なぜなら、さっき見たものと同じ映画なのだから。けれど、不思議なことに、執拗な注視は時に見えないものを見せることがある。知りたいという切なる願いが、きっと作り手すら意図していなかった(かもしれない)〝メッセージ〟を、啓示的に看取させるのだ。画面の端のこれは、きっと……という具合に。


見たいものを見ようとしているだけなのか……「アンダー・ザ・シルバーレイク」

そんなことを考えながら、ふと思い出したのが、デビッド・ロバート・ミッチェル監督作「アンダー・ザ・シルバーレイク」(2018年)である。ある夜に知り合い、翌日のデートを約束した女性が、朝には引っ越して消えてしまい、主人公が行方を捜し始めるという本作もまた、偏執的探求についての物語なのだ。

カメラマンが主人公で探求対象も写真だった「欲望」の一方で、本作は主人公が無職の家賃滞納青年なのが新味。部屋には映画のポスターがいくつも貼られ、コミックショップに通う〝オタク〟な彼もまた、探査対象を必然的に自らの領分、すなわちサブカルチャーに見いだすことになる。レコードを逆回転して隠れたメッセージを探り、歌詞を精査し数字に置き換えて、解読しようとしたりする彼の調査方法は、一見でたらめにも思えるが、意外にも実を結び、芋づる式に手がかりをつかんでいくところが面白い。しかし、それにしても重要な手がかりがこうも身の回りばかりにあるものなのだろうか? すべて奇妙な偶然なのだろうか?

悪夢的に進んでいく本作の探索の旅は、正直なところ現実の出来事かすら疑わしい。要するに、おそらく本作も「欲望」と同じく調査自体に核心はないのだろう。主人公は調査を欲している。「欲望」以上に、狂おしいほどに意味を求めている。だから次第に意味が見えてくる。見て取ってしまう。その状態を描いていると言っていい。


「アンダー・ザ・シルバーレイク」©2017Under the LL Sea,LLC

気のせいでもこじつけでも

このような映画を見るたびに思うのは、映画愛好者の心理にも遠からぬ面があるかもしれないということだ。すくなくとも私個人の場合は、1本の映画の虜(とりこ)になり、その作品に近づくために、何度となく見返して、初見時には見向きもしなかった細部に、異様に引きつけられ、重要に思えてくることがある。むろん、じっさいに重要な場合もあろう。しかし、そこに必ずしも意味はあるのだろうか。

そういったとき、心のどこかで「特に意味はないかもしれないが、短期間で集中的に見返したことで、いろいろな箇所に関心が向いているのだろう」と分かってはいるのだが、見返すたびに注視せずにいられない。曲解かもしれぬと思いながら、なんらかの意図が隠されているのではないかという考えを振り払うことができない。それだけならまだ良いのだが、逆に、より都合の良い特徴が他にはないかと捜してしまう。無意識に意味づけをして、作品の主題とつなげて〝読解〟しようとしてしまう。頭の片隅で「違うかも」と思っていても、一縷(いちる)の可能性が理性を引き留める。もしかしたら、誰も気づいていないだけで、重要な発見なのかもしれないと。

読解の甘美な誘惑

そんな心中で本作を見ると、同族嫌悪にも似た感情に襲われることになる。どこか、自らの醜い衝動を見せつけられているような。けれど、最終的には探求からの解放を描いているようにも見える。〝意味〟の誘惑は甘美で、人を夢中にさせ、安心させる。けれど、そのじつ、そこにはなにもないのかもしれない。見たいものを見ているに過ぎないのではないか。ありのままを見、それを受け入れる──本当に重要なことは、それしかないのではないか、と。

いや、これもまた、意味=教訓をく汲み取りすぎているのかもしれない。そんな映画ではないのかもしれない。しかし「アンダー・ザ・シルバーレイク」を公開当時に幾度も見て、安易なほうへと流れてしまう自らの思考回路を意識し始めたのは紛れもない事実であり、少なくとも私にとっては、〝意味〟ある体験だったのかもしれない──久しぶりに見返して、そんなことを考えた。

「欲望」「アンダー・ザ・シルバーレイク」とも、U-NEXTにて配信中。

ライター
髙橋佑弥

髙橋佑弥

たかはし・ゆうや 1997年生。映画文筆。「SFマガジン」「映画秘宝」(および「別冊映画秘宝」)「キネマ旬報」などに寄稿。ときどき映画本書評も。「ザ・シネマメンバーズ」webサイトにて「映画の思考徘徊」連載中。共著「『百合映画』完全ガイド」(星海社新書)。嫌いなものは逆張り。