高倉健が通った東筑高校(旧制東筑中学)の通学路にある堀川(15年6月28日撮影)

高倉健が通った東筑高校(旧制東筑中学)の通学路にある堀川(15年6月28日撮影)

2022.3.26

原点 北九州と高倉健さん 中

2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。

ひとしねま

長谷川容子

2014年11月に83歳で亡くなった高倉健さんのメモリアルイベント「健さんに逢いたくて」(毎日新聞社などの実行委員会主催)が翌15年11月15日、北九州市小倉北区の北九州国際会議場で開かれました。このイベントの事前に西部本社版にて掲載された特集の2回目。高倉さんの原点ともいえる北九州での足跡を振り返ります。全国では蔓延防止等重点措置も解除されました。旅情も感じてもらいたいと再掲載しました。
*()内の年齢は掲載当時のもの

焼夷弾が落ち、爆風が押し寄せた

1944年、遠賀郡香月町(現在の北九州市八幡西区)にあった池田国民学校から旧制東筑中学(現・県立東筑高校)に入学した高倉健さんは、本名「小田剛一(たけいち)」の音読みで「ごうちゃん」と呼ばれるようになった。戦時下で、2年になると授業はなくなり、当時の国鉄二島駅(同市若松区)近くの液体燃料工場に学徒動員された。
「確か45年8月8日の八幡大空襲の日だったと思う」。同級生の花田郁実さん(83)=福岡県中間市=は振り返る。「空襲警報には慣れっこでテレテレ歩いていたら、先生が血相を変え、木刀を振りかざしながら『走らんかー』と追いかけてきた。驚いて敷地内の炭鉱の斜坑に飛び込んだ瞬間、ざーっと焼夷(しょうい)弾が落ち、爆風が押し寄せた。間一髪でごうちゃんも私も九死に一生を得た」。生徒も教師も全員無事だったが、汽車は不通となり、その日は数時間歩いて自宅へ戻った。

拳闘部、ESSも発足

「戦争中は“鬼畜米英”という言葉がよく使われ、ごうちゃんとの会話にもよく出てきた。終戦を境に2人の憎しみは憧れに変わり、私もごうちゃんも英語のマスターに力を入れるようになった」。同じ香月町に住んでいた同級生の敷田稔さん(83)=神奈川県藤沢市=は回想する。
周辺に進駐軍の施設ができ、街を歩く米兵は多かった。初めて見る食べ物や文化に2人はひかれたという。高倉さんは米軍基地司令官の息子と知り合い、ボクシングと英語を教えてもらうようになった。敷田さんと学校に拳闘部を創部。英会話クラブ「ESS」も発足させた。2人の間ではできるだけ英語で会話することを決め、映画館に入り浸って朝から晩まで洋画を見た。

映画「哀愁」に触れ

後に検事となり、国連事務局へ出向するなど国際舞台でも活躍した敷田さんは、90年発行の雑誌で高倉さんと対談している。この中で、「人の前に出てものを言うのは性分に合わんと昔から言っていたけど」と指摘する敷田さんに、高倉さんは「当時、俳優を志していたわけでも何でもない」と返しつつ、対訳シナリオを買って何度もみた映画「哀愁」に触れ、主人公の男女が交わすセリフに「欧米人はこんなふうに会話するってことが鳥肌が立つほど新鮮だったな」と熱く語る。あの時代に出合ったアメリカが原点にあったことをうかがわせた。(15年11月11日 西部本社版紙面より)

福岡県立東筑高校
http://tochiku.fku.ed.jp/Default2.aspx
〒807-0832北九州市八幡西区東筑1丁目1番1号
JR折尾駅から徒歩8分

ライター
ひとしねま

長谷川容子

毎日新聞記者

カメラマン
宮脇祐介

宮脇祐介

みやわき・ゆうすけ 福岡県出身、ひとシネマ総合プロデューサー。映画「手紙」「毎日かあさん」(実写/アニメ)「横道世之介」など毎日新聞連載作品を映像化。「日本沈没」「チア★ダン」「関ケ原」「糸」など多くの映画製作委員会に参加。朗読劇「島守の塔」企画・演出。追悼特別展「高倉健」を企画・運営し全国10カ所で巡回。趣味は東京にある福岡のお店を食べ歩くこと。