「ゴジラ-1.0」がヒット街道をばく進している。山崎貴監督は1954年公開の「ゴジラ」第1作を強く意識し、終戦直後の日本に「戦争の象徴」としてのゴジラを登場させた。初代ゴジラの生みの親の一人、本多猪四郎監督が1992年10~11月のロングインタビューで語った半生と映画への思いを、未公開の貴重な発言も含めて掲載する。「ゴジラ-1.0」を読み解く手がかりとなるコラムと合わせて、どうぞ。
2023.12.02
第6回 三船敏郎、黒澤明、八千草薫……葬儀にそうそうたる映画人 「天国に行くでしょう」
蛇足とは思うが、締めとして本多監督の葬儀について書き加えたい。80歳を超えても映画作りに情熱を燃やし続けた本多監督だったが、1993年2月28日、81歳の生涯を終えた。記者のインタビューから、わずか3カ月後のことだった。
同年3月6日、東京都世田谷区の成勝寺で「お別れの会」が開かれた。会場には銀幕や映画本で見知った多くの顔があった。思い出すままに書き並べる。黒澤明を筆頭に谷口千吉、手塚真、中野昭慶、上原正三などの監督・脚本家、寺尾聡、油井昌由樹、峰岸徹、香川京子、八千草薫ら俳優たち。山本廉、堺左千夫、宇野晃司といった東宝映画の脇役でおなじみの顔ぶれや、初代ゴジラのスーツアクター、中島春雄の姿もあった。
多くの作品で組んだプロデューサー、田中友幸は不在だった。病気のため、当時は極力外出を控え、自宅でリハビリと療養に励んでいたという。田中も、この約4年後に亡くなる。
体調不良押して姿見せた三船敏郎
受付で記名していると、隣で男性が大きな声で何かを尋ねている。何げなくそちらを見たら、なんと「世界のミフネ」こと三船敏郎だった! 三船は「港へ来た男」(52年)、「太平洋の鷲」(53年)、「この二人に幸あれ」(57年)と3本の本多作品に出演している。この数カ月前に心臓発作で倒れており、決して体調は良くなかったはずだが、人づてに知る義理堅さを感じさせた。
式場に入り、献花台の真ん中に飾られた遺影を見て驚いた。本多監督のインタビューは7回にわたり、うち1度は東宝砧撮影所内で行ったが、その際に撮影した写真が使われていたのだ。特撮用大プールを背景に、ディレクターズチェアに座った本多監督が笑顔を浮かべているカットだ。最後のインタビューの際に「記念に」とお渡しした数枚の一つだった。こんな使われ方を望んではいなかったが……。
会の最後は、友人代表として黒澤明監督があいさつに立った。「本多は映画を愛し、本多らしく静かに人生を終えました。本多が行くのは天国でしょう」。短くてシンプル。それでも本多監督の誠実な人柄と、黒澤監督の盟友への深い友情が十分にうかがえる言葉だった。