【図1】男性版、女性版のCM冒頭にある、目元をアップで捉えた映像

【図1】男性版、女性版のCM冒頭にある、目元をアップで捉えた映像

2023.2.02

広告が映し出すジェンダー・バイアス――日経電子版「2023初割」キャンペーン:よくばり映画鑑賞術

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

30秒間のCMを構成するショットの数は、それぞれ16と17で大差はない。映像の流れや、映像を構成するショットの内容もほぼ共通している。
 
日経電子版(日本経済新聞電子版)のテレビCMの話である。CMは二つ用意されており、それぞれ女性(杉咲花)と男性(池松壮亮)をメインに起用している。いずれも日本電子版の「初割」キャンペーンの特設サイトおよび日本経済新聞のYouTubeチャンネルで公開されている。
 
短時間の映像で視聴者を何らかの購買活動に向かわせようとするCMと、比較的長い時間をかけて観客を物語の世界に誘おうとする映画とでは、その様態と目的において大きな違いがある。だが、映像によって構成されているという点は同じであり、両者に共通して用いられている映像上の工夫も多くある。CMの分析は、映画を分析するいい練習になるのである。
 

CMは「理想のあなたになれる」という物語を提供する

日経電子版の広告をめぐっては、その内容に一部から批判が寄せられている。このキャンペーンには主として批判の対象となっている静止画像だけでなく、テレビCMが存在している。そこで、まずはCMを分析し、しかるのちに改めて画像を検討しようと思う。
 
CMは視聴者に商品やサービスを買ってもらうことを目的としている。しかし、単に「いい商品/サービスだから買ってください」と言ったところで、効果は望めない。多くの場合、その商品/サービスを使うことで視聴者の身に起こるポジティブな変化が強調される。それが視聴者の思い描く理想と重なっていれば、商品/サービスに興味を持ってもらえる可能性が高くなる。
 
視聴者に商品/サービス使用後の理想的な姿をイメージさせ、好ましい印象を持たせるために、物語の力が活用される。観客を主人公に感情移入させようとする映画と同様の戦略が求められるのである。
 

ターゲットは脱「若手」を目指す社会人

今回取り上げる日経電子版の動画CMには6秒、15秒、30秒のものがあり、その総数は19にものぼる。ナレーションや惹句(じゃっく)の組み合わせによってバリエーションを持たせているが、今回はもっとも情報量が多く、「TVCM」として特設サイトで紹介されている30秒バージョンの二つを取り上げる(ほかのバージョンのCMの映像は、基本的に30秒バージョンから一部を切り出したものである)。
 
この二つのCMには、それぞれ「杉咲花『もう若手じゃない』」、「池松壮亮『成長鈍化してる?』」というタイトルがつけられている(以下、便宜的に女性版、男性版と呼称する)。いずれも、採用している物語の大枠は同じで、「日経新聞を読んで現在の閉塞(へいそく)状況を打破し、明るい未来をつかみ取る」というものである。
 
日経電子版を初めて使う人を対象にした「初割」というキャンペーンの一環であることや、20代半ばと30代前半のタレントを起用していることから、ターゲット層には主として比較的若い社会人かつ「若手」から次の段階に進もうとしている人を想定していることがうかがえる。ショットの分析を通して、さらにその内実を見ていこう。
 

男女の映像はほぼ同趣向

女性版、男性版ともに、冒頭には人物の顔をクロースアップで正面から捉えたショットを置いている【図1】。いずれのCMでも、人物が不安げに左右に視線をさまよわせたあとにカメラの方を向く。その様子をたっぷり7秒間かけて映し出す。この冒頭のショットには、それぞれ「もうそんなに若手じゃない」、「最近ふと思った。成長が鈍化してるんじゃないかって」というナレーションが重ねられている。


【図1】
 
続いて、カメラが一気に引いて、人物の上半身を映したショットに切り替わる【図2】。画面の人物は後ろを振り返るような動きを見せる。このとき、男性と女性とでは振り返る向きが逆になっている。二つのCMの構成が対になるように配慮されていることを感じさせる。このショットから音楽が流れ始め、ここから短いショットが畳み掛けるように連ねられていく


【図2】
 
三つ目のショットから次に顔のクロースアップが出てくるまでのあいだに、女性版では五つのショット、男性版では六つのショットを費やしている。内容はほぼ同様である。女性は螺旋(らせん)階段に囲まれた場所におり、男性はトンネルのなかにいる。どちらも薄暗い空間で、螺旋階段やトンネルの先には光が見えている。2人の人物は光の差す方に視線を向ける【図3】(それぞれ4番目と5番目のショット)。


【図3】
 

不安を強調し、まずネガティブな共感を集める

女性版のナレーションは、冒頭の「もうそんなに若手じゃない」から「でも、この先、今の仕事で一生サバイブしていける自信も、まだ、ない」へ、男性版は「最近ふと思った。成長が鈍化してるんじゃないかって」から「大丈夫か、俺」へと続く。いずれも映像の内容と相まって、自分の現状や先行き不透明な将来に対する漠然とした不安を強調している。
 
この種のCMにおいては、最初にネガティブな共感を高めるのが一つの骨法である。視聴者の感情を揺さぶり、当事者意識を持ってもらう(「自分ごと化」してもらう)ためだ。この過程を経ることによって、続くポジティブな共感への反応が高まり、商品への興味関心を深めてくれる=注1。
 
それぞれ冒頭から6、7番目と7、8番目には、人物の周りを景色が高速で流れ去るショットが配されている。前のショットで目を開けた状態だった人物は、いずれも次のショットで目を閉じている。玉石混交の情報が日々猛スピードで流れ去っていく現代社会と、そこに生きる若者の寄る辺なさを視覚的に表現している【図4】(それぞれ7番目と8番目のショット)。


【図4】
 

目を開くと希望が見える

ひとたび閉じられた目は、再び開かれるのが物語の常道である。そのために用意されているのが「不安や焦りにさいなまれている若者にとって、日経電子版が希望の光となる」というストーリーだ。
 
目を開く瞬間を捉えたクロースアップのショット【図5】(それぞれ8番目と9番目のショット。ここでは二つのCMを並べたときに、ちょうど人物が向き合うように撮影されている)から、再び引きのショットにつながれ、スマホを操作している様子が映し出される。


【図5】
 
続いて日経電子版のアプリをダウンロードしているスマホ画面が表示され、高層ビルの外壁を写した2つのショットにまたがって、それぞれ「たしかな情報で、未来の変化の兆しをつかみたい」、「新しい情報で、常に自分をアップデートしたい」という惹句がテロップとナレーションの両方で入る【図6】(それぞれ13番目と14番目のショット)。日経電子版の初割キャンペーンのウェブサイト(https://www.nikkei.com/promotion/campaign/2023ugoku/)に掲載されている以下の三つのポイントと通じ合う内容である。
 
POINT1 幅広い情報で、視野が広がる。
POINT2 新たな刺激で、成長を加速する。
POINT3 確かな裏づけで、情報に流されない。
 


【図6】
 
「確かな/たしかな」の表記がCMとサイトとで揺れているのは気になるところではあるが(当該キャンペーンの別サイト[https://www.nikkei.com/promotion/]には「たしかな情報で未来の変化の兆しをつかむ」という惹句も見られる)、どちらも自然な表現なので、特に理由はないのか、それとも、表示される場面に合わせて漢字とひらがなのバランスを考えたうえで使い分けているのかは判然としない。女性をメインに起用しているCMにやわらかさを出そうとしたという見方もできなくはないが、深読みの域を出ないものである。
 

男にはぶつかり、女にはぶつからない 身体的接触

それよりもさらに気になるのは、記事の冒頭で触れたCMを構成するショット数の違いである。図3の時点ですでに一つだけずれており、最終的にその差は1のままなので、ここまでの過程に違いがあることになる。
 
その違いは、各人物が光の方を向くためのきっかけに求められる。下記に引用した画像は、それぞれCMの3番目のショットからスタートしている【図7】。女性版では人物がふっと上を向く動きに合わせてカットが入り(アクションつなぎ/カッティング・オン・アクション)、次のショットで光の方を見上げる。男性版では、前方から歩いてきた人に軽くぶつかったタイミングで振り返り、それを契機として身体を反転させるショットが短く挿入され(アクションつなぎ)、次のショットで光の差す方を見る(アクションつなぎ)。


【図7】
 
つまり、二つのCMのショット数の差は、身体的接触の有無によって生じているのである。もちろん、ごくささいな差には違いない。しかし、男女を反転させても同じ描写が成立するかどうかは議論の余地があるように思う。男女のバージョンを用意しておきながら、女性だけがぶつかられるパターンのCMを作れるのか、ということである。
 
正直に言って、私には抵抗がある。それは私自身のうちにあるジェンダー・バイアスの反映にほかならない。男性であれ、女性であれ、本人の同意なしに身体に触るのは慎むべきであり、セクシュアル・ハラスメントになりかねない行為である。しかし、女性の身体に触る行為の方が、より禁忌の度合いが高いように感じられてしまう。それは私自身が男性であることや、一般に女性の方が性被害に遭いやすい現状と関係しているだろう(もちろん、男性の被害者もいる)。
 
現実には、駅の雑踏などで意図的に女性を選んでぶつかりにいく男性が存在する。逆に、男性に対して同じことをしている例は寡聞にして知らない(いてもおかしくはないが)。このCMの描写からは、男女間のジェンダー・イメージの差が読みとれる。また、それを逆転させた形で体現する現実の犯罪行為に対して、改めてグロテスクさを感じる(禁忌の度合いが高いからこそ選択的にそのような行為に走るのかもしれない)。
 
誤解のないように言い添えておくが、もちろん、これはCM制作者に悪意があることを指摘するものではない。むしろ、ここまで見てきたように、CMは徹底して男女の差が生じないように細心の注意を払っていることがうかがえる。しかし、たとえそのような意識が微塵(みじん)もなかったとしても、それでもというか、だからこそというか、ほんのちょっとした描写に男女に対するイメージの差がうっかり反映されてしまうことがある。それ自体は必ずしも悪いことではない。この程度の差は、むしろCMとしての「配慮」であって、決して「欠陥」とは言えないだろう。
 

生まれ変わりを象徴するトンネル

光の方を見るショットの次には、光の側から人物を見返したショットが続く。螺旋階段の最下層にぽつんと取り残されて光を見上げる女性を俯瞰(ふかん)の超ロング・ショットで捉えたものと、光の差すトンネルの出口を見つめる男性をバスト・ショットで捉えたものである【図8】(それぞれ5番目と6番目のショット)。


【図8】
 
このショット・サイズの違いは、これに続く目元の超クロース・アップのショット(図5で示したもの)のサイズの違いによってあがなわれている(女性の方がより目元に寄っている)。
 
井戸やトンネルのような円筒状の空間は、しばしば生まれ変わりや再生を象徴する装置として小説や映画に登場する。井戸を好んで描く小説家には、たとえば村上春樹がいる。また、トンネルを効果的に用いた映画として、数年前に話題になった韓国映画「新感染 ファイナル・エクスプレス」(ヨン・サンホ監督、2016年)が想起される。ゾンビ映画に分類されるこの作品には、終盤で生存者たちがトンネルを抜けるシーンがある。生存者のなかに妊婦が含まれているのもポイントだ。妊婦(が宿す新しい命)はこのジャンル再興の祖たる「ゾンビ」(ジョージ・A・ロメロ監督、1978年)にも登場しており、絶望的な世界のありように対して、その先にほの見える希望を暗示している。
 

明るい未来を見据えた瞳

さて、CMはいよいよ終盤に差し掛かる。それぞれ14番目と15番目に目元の超クロースアップがきて、「動く年に、日経電子版」という惹句のテロップが入る【図9】。顔の全体が見えるわけではないものの、その目元から、表情が緩んでいることがうかがえる。ショットのサイズはほぼ同じで、ここでもお互いの視線が向き合うような角度で撮影されている。


【図9】
 
「動く年」という表現には、世界が大きく動くという意味にくわえて、そのような世の中にあって、自分自身も動き出す必要性があるというメッセージが重ねられている。上下のテロップが、未来に希望を見いだしたかのような明るい瞳を縁取り、そのメッセージを強調している。
 
次のショットで日経電子版の画面が映し出され、最後に人物の上半身のショットが置かれる【図10】。女性ははっきりとした笑顔を浮かべて上を向き、男性はいくぶんか表情を緩めて顔を上げている。2人の体勢や表情には若干の違いがあり、ここにも少なからず男女差が反映されている印象は受ける。とはいえ、CM全体を通して見た場合、そこまで違和感はない。


【図10】

静止画像ににじむジェンダー・イメージ

CMの分析をひと通り終えたところで、最後に静止画像の広告を検討しておこう。特設サイト(https://www.nikkei.com/promotion/campaign/2023ugoku/)には4枚の画像が掲載されている。そのうち、批判を呼んだのは下の2枚である【図11】。コピーの部分は、2023年1月24日火曜日に差し替えられたもので、それ以前は女性側が「『すごい』と『やばい』だけで乗り切れなくなってきた」、男性側が「忙しいを言い訳に、この年まで来てしまった」であった。


【図11】
 
笑顔を浮かべてカメラの方を向いている女性と、真剣な面持ちで斜め上を見据えている男性とでは、受ける印象が大きく異なる。以前のコピーである「『すごい』と『やばい』だけで乗り切れなくなってきた」と合わせて見ると、女性の画像からは「お気楽」で「能天気」な印象がにじみ出てしまう。開放的な背景もそれに拍車をかけている。それに対して、男性の画像は「未来を見据えて自分を変えようとしている」かのような印象が強い。もちろん、写真から受ける印象は主観的なものである。ここで述べたのとはまったく異なる印象を受ける人がいてもおかしくない。しかし、いずれにせよ、男女の写真を構成する要素の違いは、批判の対象になってしかるべきものである。
 
CMの最後のショット(前掲図10)と比べると、男女の視線の向きに変化をつけようとしていることがうかがえる。CMでは女性が上方向を、男性が前方を見ていた。しかし、女性にはっきりとした笑顔を割り当てている点は共通している。さらに、その笑顔の印象も若干異なる。カメラの方を向いてにっこりと笑う静止画像の女性の姿からは、「アイキャッチ」としての役割が強く感じられる。(多くの場合、性的な魅力によって)人々の目を引きつけるための役割である。それは「見られる性」として、歴史的に広告のうえでも女性が押しつけられてきた役割である。これはコピーがなかったとしても成立する批判だ。
 

女性をアイキャッチとして利用する

そのように考えると、男女それぞれの画像は、実はいずれも男性消費者に向けたものであるように見えてくる。すなわち、女性をアイキャッチとして利用しつつ、自分のキャリアを真剣に考えて前(未来)、あるいは上(成長)を志向する男性に同一化できるようにたくまれているということである。現行のコピーに対して、用いられている画像が、たとえばCMの【図2】のようにお互いキリッとした表情のものであればそうした違和感は生じなかったかもしれない。


【図2】
 
もちろん、たとえこの画像であったとしても、女性側に「『すごい』と『やばい』だけで乗り切れなくなってきた」というコピーを割り振ったら批判は必至だろう。若い女性は「すごい」と「やばい」を使っていれば世の中を渡っていけると言っているに等しいからだ。女性というだけで長きにわたって採用や待遇の面で劣位に置いてきた現実がありながら、あたかもそれが意識の差や実力差であるかのようにすり替える差別的表現である。
 
ちなみに、残りの2枚の画像は下のもので、以前のコピーは「情報ソースが偏ると、自分まで偏る気がする」、「今日もミュートしたまま、会議が終わってゆく…」となっていた。すなわち、1月24日以降に四つのコピーと画像の組み合わせを入れ替えた形である。


【図12】
 

生じてしまう表象の差

改めて強調しておくが、私の目的は広告の制作者を糾弾することにはない。制作者を差別主義者呼ばわりするつもりも、広告の差し替えや取り下げを求めるつもりも毛頭ない。むしろCMの分析を通して確認してきたように、制作者は相当程度、男女の公平な表象に努めている。それでもなお、男女をめぐるこの程度の表象の差はごく自然に生じてしまうのである。どちらかと言えば、そのこと自体を問題にしている。
 
序盤で述べたように、広告の目的は商品/サービスに興味を抱かせ、あわよくば購入に踏み切ってもらうことである。消費者からの好意を期待こそすれ、(一部の炎上商法を除いて)不快にさせることを目指す道理がない。広告表現は映画と同様に、多かれ少なかれ社会を映し出す鏡である。消費者を喜ばせるための表現に男女差別的なものが含まれていて、社会がそれを疑うことなく受け入れているのだとすれば、それは世間の多くの人がそうした差別観を温存していることを意味する。だから、問われているのは作り手よりも、消費者の姿勢であり倫理なのである。
 

広告批判があぶり出す無意識の差別意識

誰であれ、差別を指摘されるのは心楽しい経験ではない。感情的に強硬になり、むしろ開き直りたくなってしまうのが人情だろう。広告表現をめぐっては、しばしば批判側と擁護側が激しく対立する。広告に対する批判は、それを問題視してこなかった自身の差別意識に対する批判に直結してしまうからである。場合によっては実存に関わりかねないそうした批判を素直に聞き入れるのは、容易なことではない。
 
男女観や道徳観、差別観は人や時代や地域によって異なる。多くの人が絶対に許せないと考えるものから、人によってはスルーしてしまうものまで、幅も広い。ドラスチックな改革によって人々の意識を一気に変え、統一するのは現実的ではない。
 
私は批評家として、人々から「重箱の隅をつつくような難癖をつけていてウザい」と思われても、自分の抱いた違和感を世の中に向かって発信していきたいと思う(もちろん、常に私が正しいという保証はない)。たとえそれが、広大な砂漠に一粒ずつ種をまいていくような愚かで無益な行為であって、結局のところ実りを迎えることがないとしても、
 
注1=電通九州・香月勝行、妹尾武治、分部利紘「売れる広告 7つの法則」、光文社新書、2019年、26〜33ページ。

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶応大法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。大学在学中に見た小津安二郎の映画に衝撃を受け、小津映画を研究するために大学院に進学する。現在はライフワークとして小津の研究を続けるかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。


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