映画「ペトルーニャに祝福を」の一場面

映画「ペトルーニャに祝福を」の一場面

2021.5.20

この1本:ペトルーニャに祝福を 十字架巡る騒ぎの行方

毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)。

ペトルーニャ(ゾリツァ・ヌシェヴァ)は32歳で独身、無職。母親にせかされて赴いた採用面接で容姿を侮辱されて不採用と散々だ。その帰り道、川の中の群衆に成り行きで加わり、見事に十字架をつかみ取った。これはキリスト教の行事で、司祭が投げ込んだ十字架を手にした者に幸せが訪れるというものだ。実は女人禁制。ペトルーニャは男たちの怒声の中、十字架を持ち帰ってしまう。前代未聞の出来事はニュースになって、騒ぎが広がってゆく。

男性優位社会への異議申し立てが、各地で続々と映画として表現されている。これは北マケドニアの女性監督、テオナ・ストゥルガル・ミテフスカによる寓話(ぐうわ)である。ペトルーニャは男性社会が望む女性と対極的で、家にも社会にも居場所がない。だが十字架を手にしたペトルーニャは一転、無敵の存在となる。私の何が悪い?と男たちの非難の視線を真っ向からはね返す。

もちろん、十字架は男性社会の権威の象徴だ。法律上は問題なくても、男たちにとってペトルーニャの元に置くわけにはいかないのだ。

しかし彼女は、母親の説得に耳も貸さず、警察に呼び出され司祭と署長に懐柔され脅されようが、マッチョな男たちに威嚇されようが決して渡さない。教会の男性優位を糾弾しようとするテレビの女性リポーターの誘いもソデにする。男尊女卑の犠牲者として祭り上げネタにしようという、野心の片棒担ぎも拒否するのだ。軟禁された警察署で、騒ぎを尻目に傲然とふんぞり返るペトルーニャのふてぶてしい姿、なんと痛快か。

ペトルーニャは、求められる役割と表象を断固拒否し、我が道を行く。図式が単純で分かりやすい半面、批評精神が先に立って底が浅くなったきらいはあるが、ペトルーニャの決意と力強い映画の主張に拍手を送ろう。

1時間40分。東京・岩波ホール(22日から)、大阪・テアトル梅田(近日公開)ほか。(勝)

異論あり

人を見た目で判断するルッキズム、就活セクハラに年齢差別と女性蔑視のオンパレード。生きづらさしかない環境で、ペトルーニャはなぜ我慢していられたのかと歯がゆささえ感じる。祭りは男だけのものという妄信、警察署で「自分は逮捕されたのか」と尋ねる彼女をバカにした態度であしらう男たち。すべてにイライラし、見れば見るほど怒りしか湧いてこない。遠い異国の話だと客観視できないのは、日本の女性が置かれた環境に通じるところがあるからか。男性優位社会で、女が伝統という名の抑圧を打ち破ることの難しさを痛感。(倉)

技あり

表題前、水を抜いたプールに一人で立つペトルーニャをロングで捉えた、心象風景がいい。提案したのはヴィルジニー・サンマルタン撮影監督だ。ミテフスカ監督に「ミラクルだ」と言わせた。劇中では彼女の立ち回り場所が限られるせいか引き画(え)は少なく、心情を表現するのは目の動き。理不尽な警察署での取り調べや署に押し掛けた男たちの暴行、検事の脅しにも目の輝きは揺るがない。警察から解放され、司祭と向き合った終幕で、目じりはほとんど笑顔になる。目に執着して、ペトルーニャのフェミニズムを撮った。(渡)

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