「彼女のいない部屋」 © 2021 - LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM

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2022.8.15

つながらない物語を貫く絶望と悲しみ ビッキー・クリープスの驚くべき演技「彼女のいない部屋」:いつでもシネマ

藤原帰一・元東京大法学政治学研究科教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

藤原帰一

藤原帰一

さて、紹介が難しい映画です。というのも、いい映画であることには間違いないんですが、筋書きを紹介したくても、何が起こっているのかわからない。ジグソーパズルの箱をひっくり返したようなもので、断片は並ぶんだけど、どうつないで組み立てたらいいのか途方に暮れてしまいます。そもそも映画の紹介文が、「家出した女の物語、のようである。」ですよ。「のようである」なんて、じゃ本当は何なんだと聞きたくなるじゃありませんか。


 

断片だけがある家を出た女性の物語

でも、まあ、映画は確かに、家を出たひとりの女性から始まるんです。家を出て、車に乗る。合間にさまざまな映像が挟まれるので、女性には夫と息子に娘がいることがわかる。車には同乗者がいませんから、家族なしで車に乗っていることは間違いなさそうです。
 
で、ひとりで車を運転して、ガソリンスタンドに立ち寄り、旧知の仲とおぼしいそこの人とおしゃべりするんですが、その会話のなかで、しばらく海辺に行こうと思うと口にします。その後は確かに港町にやってきてお店で飲むんですが、見るからに不安定で、もうほっとけないような状態。しかも、お店にいる人は、どうもこの女性のことを知っているような気配なんですね。一本筋で映画が進んでいるようなのに、なんだか変なんです。
 
さて、これだけの断片からどんな話を考えますか? 女性が夫と子どもたちを置き去りにして家を出た、出たけれどもそれがつらくてたまらないなんてストーリーを一応は考えますよね。観客は、この女性はどうして子どもを捨てたんだろうか、その理由は何だろうという関心をもって、それから後に続く映像の断片を組み合わせようとすることになるでしょう。長女とおぼしい少女がピアノを練習する場面が繰り返され、さらに年を経たその少女がマルタ・アルヘリッチのような天才ピアニストになってゆく場面も出てくるので、これで真相が判明するんだろうと期待しますが、それでも最後の最後までわからないままです。


 

映像には本来、時制も視点もない

なんだかミステリーみたいですが、これは映画の基本を逆用した映画づくりといっていいでしょう。画面なしには映画は成り立ちませんが、それぞれの画面のどれが「現在」でどれが「過去」なのかなどと指定する必要はありませんし、時間に沿って画面を並べなくちゃいけないわけでもない。時間を前後させるだけじゃなく、ジャンプしたり後先の順番を変えたりしたって別にかまわないわけですね。
 
また、画面に映し出されるものは観客にはすべて現実であるかのように見えますから、どの画面がどの人の視点から見たものなのか、どの映像が客観的な現実でありどれが主観の投影なのかもわかりません。映像には本来、時制も視点もないんです。
 
普通の映画であれば、これは過去なのか現在なのか、またその映像が誰の視点から捉えられたものなのかをわかりやすく示してくれますから、観客は苦労することもなく画像の断片をストーリーのなかに組み立てていくことができる。逆にこれをひっくり返して、時制と視点がわからないように映画の作り手が操作すれば、普通の映画じゃない、いや、映画かどうかさえわからないような混乱のなかに観客を誘い込むことが可能になります。


 

マチュー・アマルリックのたくらみ

こんな実験を行った作品を映画史のなかから選ぶならまず挙げるべきなのがアラン・レネ監督の作品、なかでも「去年マリエンバートで」でしょう。去年マリエンバートで会ったとか会わないとかセリフが繰り返されるんですが、映っている場面はいつ起こったことなのか、いったいそんなことは起こったのか、映画の文法を書き換えることによって観客を不安定のなかに追い込む作品でした。
 
この「彼女のいない部屋」を監督したマチュー・アマルリックはまさにアラン・レネの末裔(まつえい)。最初に注目されたのは、病気のために体が動かなくなった主人公の視界に映画の画面を限定してしまうという思い切った工夫を凝らした「潜水服は蝶の夢を見る」の主演俳優として、目のほかには演技したくてもしようのない役を見事に務めたときでした。その後も「007 慰めの報酬」の悪役など俳優としての活動も続けますが、映画監督として「さすらいの女神たち」や「バルバラ セーヌの黒いバラ」など独特な語り口の映画を発表して注目されます。この「彼女のいない部屋」もアマルリックらしい映画のたくらみです。
 
ただ、映画の文法を書き換えるだけでは観客の関心をつなぎ留めることができません。映画ではそんなこともできるのかと観客を考えさせることはあって、観客のもエモーションを誘い込むことができないからです。映画を学んだ人であれば「去年マリエンバートで」はどなたもご存じでしょうが、楽しんで見たなんて人はどれほどいるでしょうか。


 

アイデアに血肉を与えた名演

そこがキャラクターの出番です。アラン・レネで言えば、「マリエンバート」よりも「プロビデンス」の方が私は好きなんですが、それはシェークスピア演劇の伝説的名優、ジョン・ギールグッドが出演して、深夜に小説を構想する老作家に実体を与えてくれたおかげでした。この「彼女のいない部屋」の場合、頭でっかちな映画で終わりかねないところを救ってくれるのが、主演を務めるビッキー・クリープスです。かつて「ファントム・スレッド」で、いま世界でいちばんと言っていい俳優のダニエル・デイ・ルイスを相手にしながら一歩も引かず、それどころかデイ・ルイスを食っちゃいそうなほどすごみのある演技を見せた人です。
 
今度はさらにすばらしい。だって、筋書きも何もわからないのに、悲しみと絶望は確実に観客に伝わってくる。下手な俳優なら演技の引き出しが少ないので悲しみと絶望を表現しようにも同じような演技や表情の繰り返しになってしまうでしょう。ところがビッキー・クリープスは顔の表情から身体の動きに至るまで、「悲しみ」や「絶望」を伝えるための手法をいくつも持っていて、それを惜しげもなくこの映画で見せてくれるんです。
 
おかげで一本調子になるどころか、悲しみと絶望という感情を掘り下げ、観客をわしづかみにしてしまう。ジョン・ギールグッドに匹敵する名演と評しても褒めすぎにならないでしょう。映画表現の方法にはまだまだできることが残されていますが、頭で工夫しただけでは映画にならない。映画のどこが監督によるもので、どこからが俳優の力なのかを考えさせられる作品です。

彼女のいない部屋

ある朝、夫(アリエ・ワルトアルテ)と2人の子どもを置いて、クラリス(ビッキー・クリープス)は家を出る。時制や視点の異なる断片的な映像を並べ、クラリスの孤独と悲しみを描き出す.

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ライター
藤原帰一

藤原帰一

ふじわら・きいち 東京大未来ビジョン研究センター客員教授。1956年生まれ。専攻は国際政治。著書に「戦争の条件」(集英社)、「これは映画だ!」(朝日新聞出版)など。「映画を見る合間に政治学を勉強しています」と語るほどの映画通。公開予定の新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

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