誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2024.4.22
LGBTQ取材10年 記者が見た「94歳のゲイ」 差別ある社会を許すのか?
ドキュメンタリー「94歳のゲイ」は、1929年に生まれ、ゲイであることを長く隠して生きてきた長谷忠さんを通じて、男性同性愛者を巡る日本社会の変化を描く。ただでさえ、当事者であることをオープンにして生きる人は多くないが、高齢の方でこうしてメディアの前に顔や名前を出す人はさらに少ない。私はLGBTQなど性的少数者の取材に10年ほど取り組んできたが、高齢の同性愛者の方の取材はほとんどできていない。本作は、貴重な記録だ。
社会課題が凝縮された人生
何気なく流れる場面も、長谷さんの人生を映し出す。たとえば、「この顔が一番好き」と言って長谷さんが壁に貼っている、紳士の写真の切り抜き。もし現在も性的指向を隠して生きていたら、老いてケアマネジャーの訪問が必要になった時、その目を気にしなければならず、この写真1枚自室に飾ることもできないだろう。人にとって性的指向は切り離すことのできない大切な要素の一つなのだと、改めて感じさせられる。
長谷さんの人生には、同性愛者を巡って明らかになってきた課題が凝縮されているように思う。長谷さんは、結婚しない理由を尋ねられるのが嫌で仕事仲間との親密な関係は避け、職を転々とし、家族にも迷惑をかけまいと疎遠になったという。仕事や家族などの人間関係から結果として切り離されるというのは、これまで取材でさまざまな年代の当事者から聞いた話と共通する。
「職場で同性愛者であることを言いふらされ、退職に追い込まれた」「同性愛者であることを親に話したら、家を追い出された」。境遇や事情はいろいろでも、多くの当事者が似たような困難に遭ってきた。声を上げた人たちもいたものの、広く社会課題として光が当たるようになったのはこの10年ほどだ。
見て見ぬふり 国の無策
作品では、新たな出会いやつながりも描いており、「人生に遅すぎるということはない」と言えそうなところもある。けれども、もしも違う時代を生きていたら、社会の中での同性愛の扱いが違ったら、長谷さんには間違いなく別の人生があったはずだ。失われた時間は取り戻せないという事実が、どうしても重く突きつけられる。
日本では、戸籍上の性別が同じカップルは法的な結婚ができない。2019年、性別を問わず結婚できるようになることを目指し、同性カップルの婚姻を認めない現行制度の違憲性を問う訴訟が各地で起こされた。これまで、同性婚を認めない民法などの規定が憲法に違反するとの判決が、各地方裁判所で相次いでいる。一方で、政府に動きは見られない。訴訟の原告たちをはじめ、同性婚の法制化を求めて多くの人が声を上げているが、国はまるで見て見ぬふりをしているようだ。
さっぽろレインボープライド トラックに乗り沿道に手を振るパレードの隊列=2023年、後藤佳怜撮影
失われた時は戻らない
取材を通じて、いつも思うことがある。たとえ今すぐ同性婚が法制化されたとしても、ある面では既に遅い。当事者それぞれの、自分を偽って過ごした時間や、結婚という選択肢がないために破綻した大切な人たちとの関係など、失われたものは取り戻せない。それから、この世を既に去った人たちもいる。たとえば、東京地裁で提訴した原告の一人であった佐藤郁夫さんは、21年1月、帰宅途中に駅で倒れ、搬送先で急逝した。61歳だった。15年以上同居した同性のパートナーと「夫夫(ふうふ)」になることを願っていた佐藤さん。この先日本で同性婚が法制化されても、佐藤さんには間に合わなかった。求めていたのは、異性カップルなら書類を1枚提出すればかなうことだというのに。
作品中には、昨今テレビ番組などで性的少数者が取り上げられることを指して「今、差別とかもないから」と口にするゲイの当事者と見られる人が登場する。もちろん個人の受け止め方はそれぞれだし、性的少数者を巡る社会課題解決への取り組みが広がっているのは確かだ。
「94歳のゲイ」©MBSTBS
身近なことから変えていこう
しかし、異性愛者に認められているものが同性愛者に認められていない現状は、差別があるとしか言いようがない。法制度がすべてではないが、法制度は日常のあらゆる場面に影響する。そのような差別のある社会を許容し続けるのか、どうか。社会の大多数を占める、性的少数者ではない人たちにこそ問われていると私は思う。
有形無形の差別が色濃く刻まれた、長谷さんの人生。94歳まで生き抜いて、世の中へその姿を見せることで、変化を訴えかけている。映像を通じてその人生に触れた人たちが、ごくささやかな、身近なことからでも、変えていくことを願う。
「94歳のゲイ」©MBSTBS
存在見えにくい女性同性愛者
最後に、本作品に対して抱いた違和感について触れておきたい。本作のサブタイトルに「この国の同性愛史を紐解(ひもと)く」とあるが、正確には、この作品が紐解こうとしたのは「男性同性愛史」だ。主人公が男性であることからすれば、男性同性愛者の話が中心になることは自然な流れではあるので、それ自体は問題ではない。しかし、ほぼ男性同性愛者の話しかしていないのにただ「この国の同性愛史」と銘打つのは、女性の同性愛者の存在を見落としてしまってはいないだろうか。
この点をわざわざ指摘したのは、「同性愛」について語られる場で、男性同性愛、男性同性愛者ばかりが取り上げられるということをこれまでも目にしたことがあるからだ。力及ばず、私は女性同性愛者の歴史の記録に取り組めていない立場ではあるが、存在が見えにくくされやすい女性の同性愛者の声も聞かせてもらってきた者として、述べておきたいと思った。