誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2024.4.25
「ゴジラ×コング 新たなる帝国」が必見のわけ そんたくなし! 行儀悪い怪獣たちの大暴れ
実に爽快な映画である。「ゴジラ-1.0」大絶賛の世相の中で、どこか喉の奥に小骨が刺さっている気がしても、それを言いあぐねていた小心者にとって、その小骨を抜き取ってくれたハリウッドの手腕に大拍手を送りたい。
正邪善悪逆転 怪獣の童話
「ゴジラ-1.0」は久しぶりの邦画の名作である。が、何かに迎合する、あるいは妥協する「小骨」があった。それは、何か。さっさとタネを明かせば「きれいごと」「おためごかし」「いい人ぶり」である。泥を描かなければハスの花の美しさなど表現できない。「ゴジラ-1.0」の本質的弱点は(演技など細かいところは別にして)ここにある。
ところが、本稿の「ゴジラ×コング」には、「小骨」は一切ない。一直線の一本道、横道寄り道の一つもない、すがすがしいまでの「童話」である。普通、童話には「寓意(ぐうい)」が隠してあって、ある意味うっとうしいが、それもない。スクリーンに映っていることがすべてである。なれど、「勧善懲悪」を描いているように見せかけて、実は「正邪善悪」の逆転をほのめかす。一筋縄ではいかない相当厄介な「童話」なのである。
ストーリーは明快そのもの。突然発せられた「SOS」信号に反応してゴジラとコングが覚醒する。「SOS」は地底人から送られてきたものだった。地底には、極悪の不潔狂暴極まりない、コングとは別種族の大猿がいて、地上進出を企てていた。ゴジラとコングはモスラの仲介でケンカをやめて1980年代プロレス界最強だった「ハンセン&ブロディ」のごときタッグを組み、凶悪大猿を退治する。なんとも単純で、あらすじだけ読むと見に行かない人が出てきそうで心配なくらいだ。
〝やっちゃいけない〟ことを全部やってくれる
では、なぜ見る価値があるか? 親や教育システムや社会のルールや世俗のマナーや時代が押し付ける決め事などに抑圧された現代の子供たち(大人も?)が「禁止されてうんざり」するし「失敗すると怒られる」し「やりたくてしょうがない」ことを、この映画では、みんな怪獣が子供たちの代わりにやってくれるのだ。子供たちは涙が出るほど痛快に違いない。つまり……
大声を出して走り回る。動きながら食べこぼしをする。家のものや他人のものを壊す。ガキ大将になろうと権力闘争する。ガキ大将が怖いから仲間を裏切る……。言い換えればこれらは「お行儀の悪いこと」である。子供たちは皆お行儀の悪いゴジラやコングに自らを投影しカタルシスを味わうという仕組みである。
コングの食べっぷりの汚さは天下一品である。凶悪大猿の息は絶対臭そうである。ピンク色のゴジラはセンス悪すぎでしょう。そもそも世界遺産は壊すな! どこもかしこも「やっちゃいけません!」の洪水である。子供は(中には大人も)、本当は羽目を外したくてたまらない。代わりに怪獣がやってくれるのだから最高にうれしいのだ。
日本への余計な気遣いなし
実は、このことはこれまでの「モンスター・ヴァース」シリーズになかった仕掛けであり、大ヒットの要因であると推察する。特にゴジラが登場する「モンスター・ヴァース」作品は、あちらこちらに「日本ゴジラ」に対する遠慮があって、芹沢博士に特攻精神で自己犠牲の原爆点火をさせたり、因縁めかして博士の縁者にメカゴジラとリンクさせて白目をむかせてみせたりと、無用な気遣いが散見された。
しかし、本作に一切「日本臭」はない。あるとすれば、地底人の設定が「海底軍艦」(1963年公開、東宝)に登場する地底人(ムー大陸人)と酷似していること。凶悪大猿が飼っている怪獣が「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」(66年公開、大映)の冷凍怪獣そのものであることなどであろうか。ちなみに、本家バルゴンは冷凍光線だけでなく、背中から虹のような光線も出して美的であったが、大猿の怪物は、ゴジラ・コングの攻撃に押されて大猿の形勢が不利になるや否や、大猿にそっぽを向く「人間らしい醜さ」があって、ますます「童話」である。そうそう、モスラのお約束「小美人」もとうとう現れる。一人だが。
話を戻すと、こうして「本家」の呪縛から解き放たれたゴジラと、本来人間の管理とは何かを知っているコングは「子供のように自由に」破壊を繰り広げる。ここで何を「やっちまった」か書き並べたいがネタバレと言われるので遠慮する。試写室に笑いが起こったとだけ書いておこう。
泥がなくては花は輝かない
では、この映画の本筋は「社会を混乱させる哀れで無知な怪物と、平等公正博愛と環境問題解決を願って生きる有能な人間の友情物語」かと言えば全く違う。そう思っている人がいてもいいが、どちらかと言えば正反対である。怪獣は、子供のようにわがままかつ自由で、過去の人間が作った価値観はどうでもいい。人間は自分たちが作った価値観(新旧含め)で自縄自縛となっており、その人物が有能であろうがなかろうが、怪獣の意思に対してあまり意味は持たない。理解者ぶった主人公ですらそれに気付いていない。ただの狂言回しである。
人間は「花」に見えても、怪獣を輝かせる「泥」の役割でしかないのだ。西洋的な人間中心主義を根底に持っているように見せかけておいて、その実、人間よりはるかに無垢(むく)なるものに正善の価値を与えた。こんな離れ業を成功させたのが、この映画ではなかろうか。そう、この「童話」は、どこか仏教的と言ってもいいだろう。凶悪大猿の悲哀は未解決なれど。とはいえ、あくまで怪獣活劇を主軸とした子供向けの「童話」である。怪獣の暴れっぷりに驚き、映像の技術進化に感心し、ちりばめられた映画的手法にほほ笑むというのが、正しい見方であろう。