いつでもどこでも映画が見られる動画配信サービス。便利だけれど、あまりにも作品数が多すぎて、どれを見たらいいか迷うばかり。目利きの映画ライターが、実り豊かな森の中からお薦めの作品を選びます。案内人は、須永貴子、大野友嘉子、梅山富美子の3人に加え、各ジャンルの精鋭たちが不定期で寄稿します。
2025.1.07
<考察>イーストウッド監督史上、最も身近? 話題の裁判劇「陪審員2番」をひもとく
日本でも高い人気を誇るクリント・イーストウッド監督の最新作「陪審員2番」が、2024年12月20日よりU-NEXTで独占配信中。全米映画批評家協会が選ぶ24年の10本に選出されるなど絶賛評が相次いだ本作は、日本での劇場公開を求めるファンによるオンライン署名活動が行われるなど話題を集めており、配信直後には週間映画ランキング1位を記録した(ただ、本国の配給会社ワーナー・ブラザースは当初から自社ストリーミングサービス「Max」のオリジナル配信映画として想定していた模様。そのため、本国での劇場公開も限定的なものだったという)。
雨の夜にはねたのは、人だったのか……
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のニコラス・ホルト、「ヘレディタリー/継承」のトニ・コレット、「テラスハウス」の福山智可子らが出演した「陪審員2番」は、タイトル通り陪審員制度(陪審員が裁判官から独立して、事実の判断とそれに基づく有罪・無罪を決定する)をテーマにした法廷サスペンスだ。同様の題材を扱った不朽の名作「十二人の怒れる男」を想起した方も多いだろうが、本作の特徴は主人公が事件と無関係ではない点にある。
妻が出産間近のジャスティン(ニコラス・ホルト)は、陪審員として参加した裁判の場で、衝撃を受ける。豪雨のなか橋の下で死亡した女性の殺人容疑で恋人が起訴された事件なのだが、犯行時刻にジャスティンも現場を車で通行しており、何かをはねていた……。てっきりシカだと思っていたが、実はその女性だったのか? 真犯人は自分なのか? しかし証拠は何もない――。罪の意識にさいなまれながら、ジャスティンは陪審員として「有罪か無罪か」を判断せねばならなくなる。
裁かれるべきは誰か?
映画の人気ジャンルである「裁判劇」は、いかに斬新なアイデアを持ち込むかが生命線。衝撃的な展開とエドワード・ノートンの演技が話題となった「真実の行方」、陪審コンサルタントの裏工作が展開する「ニューオーリンズ・トライアル」、ロバート・ダウニー・Jr.とロバート・デュバルが父子役に扮(ふん)し、判事である父を弁護する息子の葛藤を描いた「ジャッジ 裁かれる判事」等々、多くの作品が自分たちならではのストロングポイントを模索してきた。直近では、「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」が現実と夢(ミュージカル)を織り交ぜて裁判シーンを構築していたのが記憶に新しい。
「陪審員2番」はそうした裁判劇の系譜をしっかりと踏襲しており、「裁く側が実は裁かれる側だった?」というアイデアが実に効いている。本作も「十二人の怒れる男」同様に陪審員たちの意見が変動していくのだが、主人公の立場が部外者から当事者にスライドしていくことで〝追い詰められ型サスペンス〟の様相を呈していくのだ。
その展開に合わせて、さまざまな新情報が明るみに出ていくのもうまい。陪審員のひとりハロルド(J・K・シモンズ)が元刑事だったことが判明したり、恋人が石か何かで殴って殺したのでは?と言われていたのが陪審員の中で「ひき逃げの可能性はないのか」という意見が出たことで再検証の機運が高まったりと、主人公ジャスティンにとっては気が気でない状況にどんどん悪化。イーストウッド監督はいたずらに表情をクローズアップしたり大仰な劇伴で緊迫感をあおったりはせず、引いた視点で主人公の居心地の悪さを観察していく。ニコラス・ホルトの「ポーカーフェースを装っているが挙動不審になっていく素人感」を絶妙なニュアンスで見せる芝居も秀逸で、一級の素材をそのまま生かしたシンプルな味付けが観客の興味を力強く誘引していく。
〝正義〟と保身の間を行き来する人たち
そのうえで本作のテーマとして浮かび上がってくるのは、正義とは?という問い。とりわけ、ジャスティンの性格が特徴的だ。彼は自他ともに認める善人であり、かつてアルコール依存症に陥り飲酒運転で事故を起こし、人生を棒に振りかけたものの後の妻に救われた過去を持つ。「自分の代わりに被害者の恋人が捕まってくれてよかった」と思う利己的な人物ではなく、「もし自分だったらどうしよう。罪を償うべきでは」「無実の人を有罪にしてはいけない」「いや、自分にはもうすぐ子どもが生まれる。家族の人生を奪うわけにはいかない」といった自問自答を絶え間なく続け、陪審員たちの意見が有罪に傾くと罪悪感から「もう少し検討すべきでは」と口走ってしまう。その結果、自らの立場が悪くなってしまって後悔したり焦ったりしながらも懊悩(おうのう)を繰り返していく主人公像は、実に人間的だ。
別の立場から正義について悩んでいく人物として、担当検事のフェイス(トニ・コレット)も効いている。彼女は昇進のためにこの事件で成功を収めて弾みをつけたいと考えており、出世欲の強い人物としてスタートする。そうした自分の思惑だけに従うなら有罪に傾くのは喜ぶべきことだが、自身の原点――真実を追求し、正義のために生きたいという信念から、本件の再調査を進めていくのだ。彼女もまた、ジャスティンと同じく「自分を取るか、正義を取るか」という二者択一にさらされてゆく。
「私たち」に近い主人公が問う当事者性
思えば、クリント・イーストウッド監督はこのテーマについて――自己犠牲の精神や社会的責任に言及しながら、長らく探求を続けてきたのではないか。トム・ハンクスが飛行機事故から乗客を救った機長に扮した「ハドソン川の奇跡」では、主人公をヒーローとして祭り上げずに「操縦ミスを糾弾される」点に重点を置いた。爆発物を発見して人命を救うも容疑者とみなされる警備員を描いた「リチャード・ジュエル」、優秀な狙撃兵をPTSDがむしばむ「アメリカン・スナイパー」も同様で、実在の人物をベースに正義を問うスタイルを貫いてきた。戦争を日米双方の兵士の視点で描く「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」にもその特徴が見られる。
銃乱射事件に立ち向かった若者たち本人を起用した野心作「15時17分、パリ行き」含めて、これまでの主人公が世間に広く知られた〝英雄〟だったのに対して、「陪審員2番」はいわば小市民。いまでいうところの〝闇バイト〟に加担してしまった老人を描いた実録映画「運び屋」のように一線を越えてしまった人物とは違い、ある事件を機に幼なじみ3人が再会する「ミスティック・リバー」と重なる部分は多少あれど、主人公が圧倒的に善人である(が自分を犠牲にできるほどの行動力はない)、という〝小ささ〟が、イーストウッド監督作にこれまで以上に身近さや、高い共感性をもたらしている点が興味深い。
私見も含むが、正義とは?をストレートに問う作品は、いまこの時代の空気感と必ずしもそぐわないようにも思える。もちろん時代性を意識しすぎる必要はないし、トレンドに乗っからないのがイーストウッド監督の良さでもあろう(実在の人物を映画化する時点で時代性を満たしているともいえる)。ただ、実話を中心にしてきた彼が具体的な「誰か」ではなく、限りなく「私たち」に近い主人公像を設定したうえでこのテーマを問い直すとき、そこには確かな同時代性と無視できない当事者性が立ち上がってくるのだ。