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2024.12.19
<微ネタバレあり>アマプラドラマ版「【推しの子】」は成功したか? 〝実写化否定派〟の原作ファンが考察してみた
〝この芸能界(せかい)においてウソは武器だ〟というキャッチコピーを掲げ、伝説のアイドル、アイの子どもに転生した双子のアクアとルビーを中心に芸能界の光と影を描いた「【推しの子】」(赤坂アカ原作、横槍メンゴ作画)。「週刊ヤングジャンプ」で連載中だった2023年4月にアニメ化されると、YOASOBIが手掛けたオープニング主題歌「アイドル」とともに世界中で大ヒット。24年7月から10月にアニメ第2期が放送され、第3期の制作も発表された。原作マンガが11月に最終回を迎えたのと時を同じくして、実写版がAmazon Prime Videoでドラマシリーズとして配信開始。12月20日からはドラマの続編として映画「【推しの子】 The Final Act」が劇場公開される。原作マンガ、アニメの「【推しの子】」ファン、実写化否定派の筆者が、ドラマを見てみた。
芸能界がリアルすぎないか?
実写化発表で気になったのは、芸能界の描かれ方である。芸能界がマンガやアニメで描かれていた際は、〝フィクション〟として楽しむことができた。だが実写になれば、まさに作品の舞台である芸能界で働く人が作り、演じることになる。リアルを通り越して生々しくならないか。またアイやアクア、ルビーが持つキラキラと星のように輝く瞳は、時にキャラクターたちの心情を表現するほど大事なパーツである。この輝きは、実写ではどう表現されるのだろうか。瞳以外にも、実写では難しそうな描写がいくつもある。正直、実写化には否定的だった。
が、ドラマは期待を上回った。まずはキャスティング。アクア役の櫻井海音は、実写版「【推しの子】」がドラマ単独初主演/映画初主演作品だ。〝これから世間に広まり、認知されていく〟といった意味では、アクアと重なる。新生「B小町」のメンバー、齊藤なぎさ(ルビー役)、原菜乃華(有馬かな役)、あの(MEMちょ役)も、元アイドル、子役出身といったバックグラウンドがキャラクターとリンクしていた。そして彼女らを支える周りの大人たちも絶妙であった。吉田鋼太郎、倉科カナ、金子ノブアキ、要潤ら、長年芸能界で生き抜いてきたベテラン俳優のセリフには重みがあり、作中では明確に描かれていないキャラクターの背景も垣間見えた気さえする。
〝完璧で究極〟アイドルのアイと齋藤飛鳥
実写化の成功を左右するのは、言うまでもなくアイの描き方である。マンガの中のアイは、〝完璧で究極〟。アイドルグループ、B小町の中で圧倒的な存在感を放つセンターである彼女は、施設出身というバックグラウンドやアクアとルビーの父親を誰にも明かさないミステリアスな一面も持つ。この一筋縄ではいかない役を務めたのが、齋藤飛鳥であった。乃木坂46の元メンバーである彼女は、ファンではない筆者もテレビに映っていれば見ほれてしまうほどの吸引力を持っていた。彼女が持つ〝アイドルとしての輝き〟は、ドラマ第1話冒頭のB小町のライブシーンでまぶしいほどに増幅され、〝完璧で究極〟のアイを強烈に印象づけてその後の物語を照らし続けた。
マンガでは第1巻の終わり、アニメでは第1話の終わりに描かれ、「【推しの子】」にとって肝となるのが、アイが殺されるシーンである。犯人に腹部を刺され、天国のような幸せな日常が一瞬で地獄へと変わる衝撃的な瞬間を、花びらが美しく舞う中に描いていた。ドラマでも基本的には忠実に映像化されていたが、アイが流す血や汗、唇の色や瞳が段々と生気を失っていく様子は実写の方が格段にリアルで、目を背けたくなるほどショッキングだった。
見ている誰もが犯人を憎むに違いないが、アイだけは最後まで彼に寄り添おうと必死に声をかける。痛みに耐えながら声を振り絞るアイに、自身もアイドルとしてファンと向き合い続けてきたに違いない齋藤飛鳥が、筆者の中で重なった。一方、息絶える間際にアクアとルビーに「愛してる」と初めて言葉にして伝える姿には、子を残して死ぬ母親の悔しさや苦しみが満ちていて涙が止まらなかった。つかみどころのないアイという役を演じ切った齋藤飛鳥が、実写化を成功へと導いたといっても過言ではない。
生々しさはむしろプラス
また懸念として先述した〝芸能界で働く人が作り、演じる生々しさ〟は、むしろプラスに働いていた。芸能界の虚構性を赤裸々に描いた原作の面白さが、ドラマという虚構の中で描かれることでメタ構造となり、虚構の中で真実として描かれる虚構という、バックステージものにさらにひねりを加えたものになっていたのだ。
恋愛リアリティショー編で、制作側が編集で切り取った映像がSNS上で炎上し、出演者が追い込まれていく状況が描かれる。原作の通りだが、出演者たちのオン(カメラが回っている時)とオフ(カメラが回っていない時)の切り替えは実写では自然かつリアルで、映像制作における編集の重要性が強調されていた。現実でも同様の事態が問題となっているが、その深刻さを肌感覚として伝えていたと思う。
脚本段階での原作の改変が問題となる「東京ブレイド」編は、原作マンガでは2.5次元舞台化だったが、実写版では地上波連続ドラマ化に置き換えられていた。企画から放送までの時間が限られ、撮って出しになりがちなテレビドラマが題材となることで、撮影スケジュールを追いかけるように脚本を書き上げ、視聴率の数字に追われて打ち切りの圧力がかかる制作現場の過酷さ、課題が浮き彫りになると同時に、「いい作品を作りたい」と奮闘する創作者の情熱と達成感も、血肉を伴って伝わってきた。
実写版に、原作になかった場面がある。脚本の出来を心配する原作者の鮫島アビ子に対して、脚本家のGOAが「脚本はドラマのクオリティーを大きく左右するものです。でも、それが全てじゃない。ドラマはひとりで作るものじゃありませんから」と話すシーンが追加されていた。現実を想起させるエピソードの中で、実写化の〝失敗〟を感情的にバッシングする風潮に対して、原作者と脚本家のあるべき役割や関係を示していると受け取った。
想像と誇張の余地が少ない実写映像
ファンとしては物足りない点もある。多くの実写化作品と同様、「【推しの子】」も膨大な原作を再現しきれていない。子役時代からの因縁がある有馬かなと黒川あかねが、俳優として激しくぶつかり合いながら実は互いを認め合う関係性や、原作では鮫島アビ子と〝師匠〟格の漫画家、吉祥寺頼子が切磋琢磨(せっさたくま)して成長していく人間模様はサラリと描かれるだけ。尺や展開の都合とはいえ、寂しい。
またマンガやアニメは画(え)の〝余白〟を受け手が想像で補い、誇張しながら物語を追うのに対し、実写ではカメラで撮られた映像がそのまま頭に入ってくる。マンガやアニメの〝星のように輝く瞳〟を、「目の中にある星形の光」として実写化しても、原作ほどのインパクトは伝わらない。〝キラキラと輝く演技〟も、人物に後光が差しているような映像で表現しても、キラキラ感の再現は難しい。マンガやアニメでは、特有の表現と芸能界の生々しさの混在が魅力だった。実写版ではリアルな映像のインパクトが素晴らしい半面、ファンタジー性が薄まってしまったのは仕方ないところかもしれない。
ただ、実写化の難しさとファンの不満は、制作側も織り込み済み。アクアとあかねが「原作の映像化に成功した例はない」などと話し合う場面は制作側の自虐的なパロディーで、シリアスな展開が多い本作の中で、頰が緩んだところ。
見る前は実写化否定派だった筆者だが、前言撤回。豪華なキャストや実写ならではの映像表現により、実写ドラマは「【推しの子】」という世界を表現した作品のひとつとして成功していた。賛否あった原作の結末を、映画ではどう描くのか。アクアとルビーの宿敵であるカミキヒカルに二宮和也をキャスティングした点も、映画をただの実写版で終わらせないという製作陣の気概を感じる。新たな「【推しの子】」に出合えることを期待したい。