「ポップスが最高に輝いた夜」© 2024 Netflix,Inc.

「ポップスが最高に輝いた夜」© 2024 Netflix,Inc.

2024.3.19

マイケル・ジャクソンを口説いた一言 「ウィ・アー・ザ・ワールド」ベテラン音楽記者が直接聞いた秘話「ポップスが最高に輝いた夜」

音楽映画は魂の音楽祭である。そう定義してどしどし音楽映画取りあげていきます。夏だけでない、年中無休の音楽祭、シネマ・ソニックが始まります。

ひとしねま

川崎浩

今からほぼ40年前のある夜のこと、アメリカのポピュラー音楽のスターが勢ぞろいして、アフリカの飢餓を救うためのチャリティー楽曲を作った。20世紀の名曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」である。その企画がどのように生まれ、どのように実現されていったかを解き明かそうというドキュメンタリー映画である。


「ポップスが最高に輝いた夜」© 2024 Netflix,Inc.

MTVブームに乗って

この曲が、日本で発売されたのは1985年4月。当時は、音楽を映像と共に制作して売り出す「ミュージックビデオ(MTV)」ブームが最高潮に達し、深夜のテレビで人気だったMTV番組では、毎晩繰り返しこの曲と映像が流れた。当時からメーキング映像も流布していた(そう、小林克也のナレーションであった)。付け加えれば、その後、ジェーン・フォンダを案内役に頼んだメーキング特別番組も作られている。

つまり、このドキュメンタリー映画は〝何番煎じ〟なのだ。ただ、誤解のないように言っておきたいのは決して「出がらし」ではないということである。それは、そのテーマである「アーティストの魂」が不滅の輝きを放っているからである。本編と重なるので事実関係を書くのは、はばかられるが、ざっと記述すると……。


アフリカ飢饉救済に大物歌手が大結集

83年から被害が拡大していた、エチオピアを筆頭とするアフリカ各国の飢饉(ききん)を見かねた黒人歌手の大御所ハリー・べラフォンテが、84年の英国音楽家によるチャリティーイベント「バンド・エイド」のようにアメリカ音楽界でもまとまれないものかと、有力プロデューサー、ケン・クレイゲンに相談。クレイゲンが金銭的・プロダクト的な調整を行い、べラフォンテが音楽的なコーディネートをすることで企画は動き始める。

べラフォンテは、まず、クインシー・ジョーンズに音楽プロデュースを依頼。さらに、スティービー・ワンダーにも声を掛け、2人を中心に詞曲の依頼や歌手の人選などが進む。詞はマイケル・ジャクソン、曲はライオネル・リッチーと決まり(ほぼ共作)、その趣旨に賛同したスター歌手45人が、85年1月28日夜、「全米音楽大賞」発表会(ほとんどの歌手が出席していた!)の終了後にロサンゼルスのA&Mスタジオに集結。翌朝8時までかかって、この曲を録音したのである。このドキュメンタリーの原題「The Greatest Night in Pop」の「The Night」はこの夜のことを指す。

米国での発売は、3月28日という異例のスピードで製品化され、全世界で2000万枚以上売り上げた。総計6300万ドルの収入のうち全印税が現地に寄付されたとされる。以上が、プロジェクトの概要である。還暦以上の洋楽ファンなら大概知っている内容であろう。

集まった歌手は、前述のアーティストをはじめ、アル・ジャロウ、ウィリー・ネルソン、ケニー・ロジャース、スティーブ・ペリー、スモーキー・ロビンソン、ホール&オーツ、ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、レイ・チャールズ、キム・カーンズ、シーラ・E、シンディ・ローパー、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、ティナ・ターナー、ベット・ミドラー、ラトーヤ・ジャクソンら、超の付くスターばかり。

ベトナム難民2世監督が迫った貧困の根幹

この事典的記述では「才能豊かな人たちが苦労して善行を施した」で終了だが、わざわざ「その夜」から40年もたって映像化する理由が、バオ・グエン監督にはあったに違いない。そこが本稿のポイントである。

グエン監督はベトナム系アメリカ人だが、両親はベトナム戦争時の難民だ。本作の前に評価された作品はアメリカで辛酸をなめた映画スター、ブルース・リーのドキュメンタリー映画「水になれ(BE WATER)」(ディズニー+で配信中)である。そして本作は、アフリカの貧困を救うために立ち上がった歌手たちの物語だ。しかもこの歌手たちは、ほとんどが黒人で、白人でもユダヤやイタリア、アメリカ先住民のルーツを持つ人々が多い。

そこから透かし彫りのように浮かび上がるグエン監督の関心事は、飢餓や貧困や差別の根幹に何があるのか知ることではないか。そして、監督にとってその象徴的でかつ歴史的「事件」の一つが、この「ポップスが最高に輝いた夜」であったと考えられるのである。

そう思って見ると、「音楽は人類向上のために人々を結び付ける。その力を信じている」というクインシーの言葉が、表向きの美辞ではなく、身につまされるほど切実なものに思えてくる。

もちろん、歴史的なスーパースターの元気で輝かしい姿を、さらに、彼らが共に歌える喜びを興奮しながらかみしめていることを、裏話を聞きながら楽しく見るのも結構である。ただ、自我の塊であるアーティストが、クインシーの張り紙通りに自我をスタジオの入り口ドアに置いて「音楽と人間愛への魂」だけで臨んだ「夜」は、当時同様、多数の「困難を抱える現代人」として追体験したくなるものではないか。


ベラフォンテの直電で承諾

さて、音楽記者の目からいくつか、書きとめておきたい。筆者は、この「夜」の参加者のうち15人ほど取材し、プロジェクトのことを尋ねている。その中で、映画と微妙に違うというか、触れていないことを記しておこう。

まずライオネル・リッチーの位置付けだが、リッチーは筆者に「あの曲もイベントもおれが仕切った」と中心人物のように自信たっぷりに語った。実際これは通説であり、映画でもそうふるまっている。が、ハリー・べラフォンテ、クインシー・ジョーンズ、スティービー・ワンダーによれば、リッチーはあくまでも「明るくおしゃべり」で「膨満キャラ」の「音楽家」であり、全体を見通す立場にはなく「曲作りに集中してもらった」と言う。

マイケル・ジャクソンに関しては「べラフォンテに頼まれて、早い時期にコンタクトを取ったが、彼は最初はプリンス同様、参加を断った」とクインシーは言う。困ったクインシーは、よりマイケルと親しいスティービーに頼んだもののスティービーも「僕も断られた」と言う。2人は、ベラフォンテに泣きついた。ベラフォンテは「しょうがない」と電話機に手を伸ばし、マイケルに直電。マイケルは一も二もなく参加を了承したのだと言う。これは、クインシーとスティービーの証言である。これをベラフォンテに直接確認したところ「マイケルは天才だ。彼の参加はこのプロジェクトに欠くべからざるものだ。そうお願いしたら快諾してくれたよ」とにこやかに話した。


自我をスタジオに持ち込んだのは……

もはや、ベラフォンテを語る人は少ないが、アメリカ黒人音楽界の最高の人徳者とされている。白人社会の中に、「芸」だけではなく「人格」で認められ、かつ黒人の地位向上に尽力して黒人の尊敬も集めた最初の音楽家と言われる。ちなみに、この「夜」のスタジオにゲストとして招かれていた黒人初のハリウッドスター、シドニー・ポワチエも黒人から「裏切り者」呼ばわりされていたのだ。ベラフォンテの音楽のすばらしさは、60年7月の来日公演時に、三島由紀夫が毎日新聞に寄稿したコンサート評の絶賛ぶりにとどめを刺そう。

また、クインシーらしいユーモアあふれる皮肉だろうが「私が手紙に書いた『自我を置いてスタジオに入れ(CHECK YOUR EGO AT THE DOOR)』という注意を無視したやつが一人いるんだよね」と笑って名指しした男性歌手がいる。「この夜」のスタジオでも日ごろのスタイルを全く崩していないので、映画を見ればすぐに分かる!?

ライター
ひとしねま

川崎浩

かわさき・ひろし 毎日新聞客員編集委員。1955年生まれ。音楽記者歴30年。映像コラム30年執筆。レコード大賞審査委員長歴10回以上。「キングコング対ゴジラ」から封切りでゴジラ体験。

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