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2022.4.05
映画予告専門ディレクターという仕事
国内外問わず、数々の映画予告を作り続けてきた「ガル・エンタープライズ」の西川泉さん。作品が気に入られ、ジャッキー・チェンの香港の邸宅に招かれたという逸話も持つ人物だ。2016年から18年にかけて、九州や北海道まで全国10カ所を巡回した日本を代表する名優・高倉健の「追悼特別展」では、高倉が出演した映画205本の映像を編集するという大仕事も任された。
そんな西川氏が、いかにして映画予告専門ディレクターという特殊な職業に就き、どのような経験をしてきたのか。彼の軌跡を追う。
聞き手:宮脇祐介
まとめ:及川静
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――まず、どういった経緯で映像の世界に興味を持たれたのですか?
杉山登志との出会い
多感だった小・中学校時代、僕は映像というものにとらわれていました。試験前にも深夜番組を見てしまったり(笑い)。そのなかで15秒、30秒のなかで全てを表現しないといけないコマーシャルを意識するようになりました。当時、杉山登志(とし)さんという日本天然色映画という会社のディレクターで、資生堂のCMなどで注目を浴びている方がいたのですが、その方が自死したんですね。その彼の辞世の句に「『夢』がないのに 『夢』をうることなどは……とても 噓(うそ)をついてもばれるものです」とあったんです。
――新聞記事にもなりましたね。
はい。コマーシャルという虚飾の世界の仕事をしていた自分と、自身の世界にギャップがあったのでしょうね。それで自死するまで仕事に埋没した彼のことを気にかけるようになりました。映像の世界で彼はどういう境地になり、そこに至ったのか。彼と同じ境地まで行けるかどうか分からないけれど、その世界を体現したくなった。短い時間のなかでどこまで意図するものを作れるか。あるいは虚偽を虚偽じゃなく、実際にあったことのように見せられるか。とにかく映像に関する仕事をしたいという思いが、中学時代に芽生えました。
――そこからどうやって予告編専門の職に至ったのですか?
映像関係の仕事に就きたい
原宿のルイという装身具屋でアルバイトをしていた時に、映像関係の仕事に就きたいと言っていたら、東映の昔の洋画部の方を紹介してもらえたんです。そこから、今の「ガル・エンタープライズ」の社長を紹介してもらいました。「映画の予告編やテレビスポットを作っている会社だけど、どう?」と言われて、そこから40数年たちました。
――東映の洋画部というのは洋画だけでなく、東映の映画以外の配給をしている部署で、角川映画などもやっていたんですよね。
そうです。初期に仕事をしたのは角川映画やヘラルドでしたが、もちろん洋画もありました。「人類創生」(1981年、フランス・カナダ合作映画)とか、「クルージング」(81年、アメリカ映画)とか。しかし、一番は角川映画ですね。昔の映画の予告編は監督への登竜門で、助監督が作っていたんですね。フィルムから(本編で使用しない)NG部分を切り出してつなぎ合わせ、それが認められると監督になれたんです。
角川映画のいい意味での商業主義
しかし、角川映画から商業主義になり、テレビでも予告編を流すようになりました。映画館にお客さんを呼ぶためと、映画関連の本を売るために。「読んでから見るか、見てから読むか」という有名なコピーがありましたが、角川映画は映画館にお客さんが来ないと、次の映画が作れないだろう?という、いい意味での商業主義だったんです。それで、予告編専門の業者が作るようになったんです。うちのほかにも老舗の会社が2社ほどありました。
――角川映画の予告編は、どのように作られていたんですか?
当時は映画が完成する前に特報を打ったので、脚本を読んで監督の意向を考慮しつつ、ティーザートレイラー案を提出しました。岩下志麻さんなど主演の大女優を起用して、30秒〜1分のインパクトのある映像を作るんです。クランクイン前に制作することも多く、「悪霊島」(81年)の時は僕たちの撮った島がよかったからと本編の撮影隊から映像をくれと言われたこともありました(笑い)。「天と地と」(90年)でもフィルムをあげましたね。カナダで撮った騎馬シーンを。本編を1本作れるぐらいの予算で予告編を作れるようになったのは、角川映画のおかげかもしれません。
――現在はいかがですか?
迷う時代になっている
CG(コンピューターグラフィックス)で対応できるようになってきたことで、わざわざ特報だけの別班を海外に行かせる必要がなくなり、うちの会社もCG班を充実させました。今はクロスリアリティー(XR)などもありますし、時代によってどんどんニーズが変わってきています。アナログからデジタルに変わったことで、Aタイプ、Bタイプの違いが見たいということが増えてきました。ある人は40タイプも作らされたこともあるそうです。使うのは3タイプだけなのに。デジタルになったことで、迷う時代になっているように感じます。
――Webの媒体が増えたことで迷いも増えているのでしょうか?
フィルムだった頃はNGを出したら、また現像からやり直さないといけないですが、今はすぐできてしまうので、迷いも反映されてしまうのだと思います。現在はWeb向けやサイネージ、テレビスポット、ラジオスポット、プレスキットなど、映像に関わるいろんなものを一つのパッケージとして売っていくようになりましたが、映像ひとつとっても種類は増えています。特報、予告、本予告の3タイプだったのが、Webやサイネージという駅にある縦長の液晶向けもありますから。縦長は画角をスクイーズさせないといけないので、難しいんですよ。左右に分かれてしゃべっているのに間を切ってしまったら、情景が変わってしまう。それをどう見せるかという苦労があります。ただ、中にはネットしか流さないというところもあります。今の若者はテレビを見ず、YouTubeがあれば事足りるという人も多いですからね。
――洋画の場合はどうしているんですか? 日米同時公開などスケジュールがないこともあると思いますが。
明日までに直すという無理難題も
テレビ会議などで打ち合わせをして、その後はプロデューサーがすぐに向こうに渡して、直せとなったら、すぐにメールが来る。キャッチボールがすごいので、オペレーターのようになってしまう時もありますね。明日までに直すという無理難題もあるので。
――西川さん自身についてお聞きしたいのですが、個人的に作るのが好きなジャンルは?
「狂い咲きサンダーロード」がデビュー作
コメディーです。「釣りバカ日誌」シリーズ(88〜2009年)をずっとやっていて、”寅さん”(「男はつらいよ」69〜95年、97年、19年)も少しやらせてもらったんですけど、コメディーは難しいんですよ。間とかがね。それから、夜に作っていて面白いなと感じても、朝、見るとそうでもないということもあったりして(笑い)。だから、独りよがりにならないように、周囲に聞くようにしています。「上司だと思わないで、忌憚(きたん)のない意見を聞かせて」と。
――では、これまでで一番心に残っているお仕事は?
邦画だと「狂い咲きサンダーロード」(80年)、洋画だと「フィールド・オブ・ドリームス」(89年、アメリカ映画)です。「狂い咲きサンダーロード」は、僕のデビュー作なんです。それから「蒲田行進曲」(82年)も。これは予告編大賞をもらったんですよ。80年代は、まだ真っ白でしたから余計に記憶に残っているのだと思います。職人になってくるとだんだんツボがわかってきて、決しておざなりにしているわけではありませんが、あの頃の苦労に比べるとマシというか。
――ツボとは、何ですか?
寸止めです。全部見せてしまってはいけないですが、見せなすぎてもダメ。設定的なものがわかって、どうなるのかという起承転まで見せて、もっと見たい!というところで止めるんです。
――今、予告編業界に入ってくるのはどんな人ですか? やはり美大出身者?
人間的な魅力や引き出しがどれだけあるか
いや、美大出身者は少ないですね。この4月から入ってくる新人も普通の4大を卒業した人たちです。募集をする際に言っているのですが、技術はあとからつけられるので、それよりも人間的な魅力や引き出しがどれだけあるか。会社の気風が、技術系の学校に行くよりも世界を旅しろというタイプなので(笑い)。とにかく次から次へと作っていくと枯渇してしまうので、いかに自分が経験するかが大事です。本を読んだり、展覧会に行ったりして、心を震わせることが。
――西川さんご自身が、枯渇を補うためにしていることは?
いろんな人と会って、酒を飲みかわすことですね。本当にいろんな人がいるので、66年生きてきても、おまえみたいなやつに初めて会ったよ!という驚きがいまだにある。人との出会いが縁を作り、さらにその人が体験したことを我が事のように喜んだり、悲しんだりすることもできる。人との繋がりが心を満たしてくれ、次の制作にもつながっているのだと思います。