「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
2022.6.29
女たちとスクリーン10:今も総支配人の髙野悦子 飾らずおちゃめ、何よりも映画ファン
亡くなってからも、岩波ホールの〝総支配人〟であり続ける髙野悦子。側近だった同ホール元企画室長の大竹洋子さんと髙野の元秘書・石井淑子さんへのインタビューからは、人間味とユーモアにあふれた素顔が浮かんできた。
大竹洋子さん、石井淑子さんに聞く(3) 志高く偉ぶらず
--長年近くで見ていたお二人から、髙野悦子さんの知られざる一面を。
大竹 話を聞いていると立派だし、度胸もあるのにちょっと抜けているところもあった。「かくかくしかじか」というのを「かゆかゆしかじか」と覚えちゃったり、「掃いて捨てるほど」を「掃いてよせるほど」って言ってみたり、「十把一からげ」を「いっぱひとからげ」と。それでもなんか愛嬌(あいきょう)があるんですよ。
石井 お昼を食べようと神保町かいわいを一緒に歩いていて、すれ違った人から「こんにちは」ってあいさつされた。髙野さんは「なんで私のことを知っているの」って不思議そうに言うので、「特にこの辺では知っている人が多いですよ」と伝えた。年金事務所に行って戻ってきた時も「岩波ホールの髙野さんって言われたけど、どうして岩波ホールのって知ってるの」。髙野さん、結構有名ですから気をつけてくださいと言いました。いつも自然体の人なんです。
大竹 髙野さんは人に対して垣根がないというか、素直な女性でした。
大竹洋子さん
「この人のためなら」と思わせる人間的魅力
--石井さんは自宅が近かったんですよね。
石井 髙野さんは文京区弥生に住んでいて、私の家から歩いても10分ぐらい。ご自宅にもよく仕事でうかがいました。お父様が与作さんという方で、「あなた、今日与作が作ったご飯、食べていかない」なんてよく言っていました。父親なのに呼び捨てなんですよ。でも、お父さんが本当に大好きでしたね。味も良かったですよ。
--人を引きつける力があった。
石井 すごくありました。映画が大好きとか、努力家というのだけではなくて、いい意味で、人たらしと言ってもいい。
大竹 この人のためなら、って思わせちゃうところがあった。還暦を過ぎてから赤いワンピースを着ることが増えたけど、それまでは洋服とかにはあまり構わないほうだった。
石井 そういえば、ユニクロでハイネックのセーターを買ってきて「あなたこれ1000円だったのよ」って驚いてたら、アルバイトさんから「髙野さんでもユニクロに行くんですか」って言われましたね。そんな人なんです。
ジェラール・フィリップのお墓に指輪を埋めた
--髙野さんが恋い焦がれた「様」とは。
大竹 髙野さんには3人の「様」がいました。フランスの俳優のジェラール・フィリップ様、市川雷蔵様、韓国のペ・ヨンジュン様。中でも、一番好きだったのはジェラール・フィリップ様。フランスに行った時に、ジェラール・フィリップのお墓を探して、当時自分がはめていた指輪を埋めてきた、と言っていました。すごい行動力。韓国ドラマもよく見ていて、時間があると、熱く語っていたのを、スタッフはみんな知っていた。
--3人ともイケメンというか、女性に圧倒的に人気がある。
石井 確かに、普通のおばさんみたいなところもありました。でも、やっぱりフィリップ様は別格でしたね。2009年からフィルムセンター(現在の国立映画アーカイブ)の名誉館長を務めていましたが「センターの人が、館長室にフィリップ様の大きなポスターを飾ってくれた」と喜んで話していたこともあった。
石井淑子さん
カラオケは「よせばいいのに」 ♫いつまでたってもダメな悦子ネ
--カラオケも好きだったらしい。
大竹 暮れの忘年会でよくみんなでカラオケで歌った。
石井 社員の一人が、敏いとうとハッピー&ブルーの「よせばいいのに」を髙野さんに教えて愛唱歌になっちゃいました。「いつまでたってもダメなわたしネ」ってフレーズが何度も出てくるんです。「わたし」のところを社員が「悦子」に替えて、「ダメな悦子ネ」ってよく歌って、すごい拍手をもらっていました。おちゃめでスタッフからも慕われていました。お通夜の時に私、髙野さんがよく歌っていた島倉千代子の「人生いろいろ」を歌ったのを思い出しました。
--とっても楽しい人ですね。
大竹 仕事の時は「志を高く持って仕事しよう」といつも言っていたけど、一歩離れると楽しい人だった。でも、亡くなる3年前ぐらいから病気になって、入退院を繰り返して寂しかったですね。それでも、リハビリのために韓国の舞踊をやっていた時期もあった。そんな時でも、いつも偉ぶらない人でした。
石井 エコノミークラス症候群とも呼ばれる肺血栓塞栓(そくせん)症になってからは体力が衰えてしまった。
岩波ホールの会議室で写真に収まる(左から)大竹洋子さん、髙野悦子さん、石井淑子さん=石井さん提供
「どこにもない花園に」野上弥生子の言葉を掲げ
--日の当たらない映画に光を当て、ミニシアターの代表のように言われることをどう思っていたか。
石井 そういうことに、自分のプライドとかをかざすような人ではなかった。自分のやりたいことをやり続けた。
大竹 岩波ホールが始まった時の祝辞で、作家の野上弥生子さんが「小さいけれど、どこにもない花園のような所にしてほしい、という祝辞をくれた」とよく話していて、その言葉を聞いた時に、髙野さんは「自分の目の前に虹がかかったような気がした」と感慨深げに言っていた。自身の心の中で、ずっと大事にしていた言葉だった。髙野さんもスタッフもそれを守ってきたから、ホールが今まで続いてきたのだと思っています。
■岩波ホール
東京都千代田区神田神保町交差点の岩波神保町ビル内にある映画館。1968年にオープンし演劇、講演会など多目的のホールとして使用されていたが、74年2月から東宝東和の川喜多かしこと髙野悦子が中心になり、大手配給会社が扱わない数々の名作・秀作を発掘して日本に紹介する「エキプ・ド・シネマ」運動を展開してきた。第1回作品はインドの巨匠サタジット・レイ監督の「大樹のうた」。ミニシアターとして草分け的な存在にもなった。総支配人は岩波書店の社長を務めた岩波雄二郎の義妹で映画運動家の髙野悦子で、2013年2月の死去以降は姪(雄二郎の娘)の岩波律子が支配人を務めてきた。コロナ禍を含む経営環境の悪化を原因に22年7月29日の閉館が決まっている。