富良野劇場  イラスト:梅田正則

 富良野劇場 イラスト:梅田正則

2022.11.25

「映画館のあった風景」第4回 北海道・南富良野町編 町にあった映画館

2021年生誕90周年を迎えた高倉健。
昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。
毎日新聞社では3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。
その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと想っています。

ひとしねま

小田貴月

町にあった映画館・幾寅座と幾寅劇場

「鉄道員」のロケでお世話になった南富良野町での先行試写会は、映画館がなかったため町民体育館が使われました。
 
そこで、2022年8月、映画館在りし日の記憶をお持ちの町民7人の方々に、幾寅駅の隣に建つ“情報プラザ”にお集まりいただき、町の歴史とともに、思い出をつれづれに語っていただきました。
最高齢89歳、平均年齢80歳の皆様です。
 
南富良野町は、1891(明治24)年、砂金採取者が日高山脈を越えて金山(かなやま)に入り茅屋を建てたことに始まり開拓されたと、開基の碑に記されています。
 
話題の漫画「ゴールデンカムイ」サトルサトル)は、明治末期の北海道・樺太を舞台に、死刑囚が隠した金塊を探し出そうと、アイヌの少女とかつて日露戦争で活躍した不死身の杉元が繰り広げるサバイバル物語ですが、南富良野はまさにその砂金採取者の入植から、町の歴史が始まっている土地でした。
東西に流れる空知川に沿って、落合(おちあい)、鹿越(しかごえ)、金山(かなやま)、下金山(しもかなやま)、東鹿越(ひがししかごえ)、北落合(きたおちあい)に入植が進み各集落が作られていったのです。
 
明治から大正にかけては、ほとんどの地域で娯楽施設は造られず、映画(当時は、活動写真)や芝居の興行は、学校や倉庫、あるいは集落会館が利用され、映画専用の常設館はありませんでした。
 
町史によれば、幾寅の初めての劇場は幾寅座で、その後1954年(昭和29年)に幾寅劇場が建てられましたが、テレビの普及によって64(昭和39)年ごろに廃業とされたことが記録されていました。



幾寅劇場 外観・内観


情報プラザでの座談会

湯たんぽもってった人がいた


大宮博さん(実家は豆腐屋さん、ご自身は郵便局勤務、趣味は写真:82歳)
「鈴木和男さんが幾寅劇場を経営してたって、それはわかってるんですけども、いつやめたかっていうのは、記憶にないんですね。
劇場の看板は、10日に1回か2週間に1回、変えられてたね。
町のなかにチラシが貼ってあって、始まる前になると、拡声器でガンガン知らせがあったのと、流行歌が流れてたね。
娯楽は映画くらいしかないから、結構行ってた。幾寅劇場の一番後ろは、立ち見席。
ドラム缶で作ったストーブがあったんだけど、暖かいのは、ストーブの周りだけ。だから映画館行くときは、着るだけ着込んでね。
もう、寒いからさあ。
なんか抱えてる人に、『なんさ~?』って聞いたら、『湯たんぽさ~』って(笑い)。
外へ出たら、息が真っ白だもんねぇ。マイナス25度とかねっ!」

お祭りで映画はテントに映していた


川村俊子さん(主婦 「鉄道員」ロケのときの婦人会メンバー:89歳)
「私は、農家してる家に生まれたので、その歌を聞いて、今日は映画があるんだなって知ったの。三輪オート、軽トラックだかで、音楽流して実家近くを通っていくんです。
戦後ですよ。戦前はそんなことなかった。12歳で終戦。
幾寅座が閉まったあと、農協倉庫になってそこでも映画をやっていました。
あとは、集落集落に祭りがあって、テントを張って映画を映したりしてました。
神社は、ほうぼうにありましたね」

文学物の映画でドキドキ体験


山名賢一さん(元町職員 教育委員会 元社会教育主事:75歳)
「わたしは、教育委員会に所属しているとき、南富良野の史跡をまとめたことがあって、資料を探して、人にもずいぶん話を聞きました。
下金山には、日本の映画館として登録して、映画をやってた人がいたんですね。今井美之(いまい・よしゆき)さんて方で、映画の弁士だったんです。今の青年会館で、木戸銭(入場料)とってね」


下金山劇場 青年会館

「金山には、明治42(1909)年に芝居小屋が作られました。日本中を回ってる芝居の一座が来たりするんです。
昭和の初めころは、富士製紙がダイヤモンド座を作って、地域の人に映画を見せてたんですね。この地域で最初に電気を取得したのはこの会社でした。最初は社員の方々の娯楽のためだったでしょうが、一般の方にも見せてくれるようになって。
紙を作るだけでなく、橋を架けたり、地域へ貢献してくださった。
でも、やはりテレビが発達して、映画は廃れたんですね」
 
富士製紙は、1887(明治20)年設立、静岡県富士郡に最初の工場を作ったのを皮切りに、南富良野の豊かな森林資源に着目して、1908(明治41)年に空知郡金山に第6工場を建てましたが、事業の急拡大で資金繰りが悪化、かつて首位を競い合った初代王子製紙に33(昭和8)年に合併されて消滅しています。
 
山名「私は、昭和49年に町の職員として幾寅に来ましたが、昭和41年くらいは、札幌に近い学校に通っていて、そのころは映画は学生割引で300~400円でしたから、自分の小遣いで十分見られたんです。
『天地創造』は、『さっぽろ松竹座』で、『マイ・フェア・レディ』と『フィニアンの虹』は、『シネランド札幌劇場』で見ました。
その他、『十戒』『ベンハー』『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』『誰がために鐘は鳴る』…ですか、文学物をよく見てましたね。
印象に残ってるのは、『嵐が丘』。見た映画のほとんどが、三角関係でね。
その年ごろは一本一本、ドキドキしながら観てましたね(笑い)
映画で人生が変えられたという経験はなくて、あくまで娯楽でした」

富良野の映画館で見た高倉健


後藤健寿さん(元町職員:74歳)
「私の生まれは茨城で、3歳くらいの時に、北海道に移住してきました。
落ち着いたのは富良野で、富良野高校を出て昭和41年に南富良野町役場に就職しました。
そのころ、幾寅劇場で映画をやってましたね。神社祭の時、2本立てで。
幾寅劇場で映画を見たのは、2回だけ。イベントがあった時に映画の上映があって、その時に。客席50~60だったと思うんですが、客は3人だけでした(笑い)。
 
富良野には、富良野劇場と有楽館の2館があって、富良野劇場の方が大きかったですね。
テレビもいいんですが、大きなスクリーンで見るのが好きで。
富良野の劇場では、高倉健さんの『番外地』シリーズを見ました。
映画館を出てくるときは、肩で風切って、こう、別人になってね。
『トラック野郎』も好きでした。
テレビで洋画を見るようになって、迫力があって、展開が早いでしょ。その影響を受けて、洋画を見る機会が増えましたね。トム・クルーズ物が好きです」。

富良野 公楽映画劇場

富良野 第一劇場

学校での映画教室


後藤治子さん(現・幾寅婦人会長 後藤健寿さんの奥様:73歳)
「私は、結婚して幾寅に来たのが昭和48年。子供が1歳、2歳のとき、散歩させながら、駅の辺りまで来て、映画館があったのは記憶してますけど、そこで映画は見たことないんです。
子供時代は、金山で育ちました。
小学校3年生くらいじゃなかったかと記憶してるんですが、学校で映画教室がありました。
井上靖の『あすなろ物語』、山本有三の『路傍の石』とか、子供の成長記録ですね。
映画館は大人の娯楽の場所という感じ。
大きなポスターがあって、時代劇だったかな。
三波春夫さんが歌ってる曲を流したりして。
三船敏郎さんの『椿三十郎』は、学校のみんなで見に行きました。
椿三十郎が最後に刀を出して、あっ、血がいっぱい出た!って、モノクロなのに、血の印象がとても強く残りました」

洋画を見に旭川まで汽車に乗って


佐藤圭子さん(「鉄道員」撮影時の幾寅婦人会長 佐藤茂さんの奥様:83歳)
「私は、昭和33年に初めて幾寅の駅のホームに降りたとき、わあ、どこみても山ばっかりだあと、こんなところに住むのかあって不安だらけでしたけど、今はとっても住みやすいって感じます。
そのとき映画館はありました。
両親が映画をよく見に行ってたので一緒に連れていかれて、京マチ子、久我美子、田中絹代、高峰秀子のような、好きな女優さんが出ているときに、映画を見に行ったっていう記憶はあるんですけど、題は思い出せないんです。
木の椅子だったので、映画を見るときは必ず座布団と毛布みたいなものをもっていってました(笑い)。
昭和34、35年になると、勤めていた役場の洋画好きな人に誘われて、『慕情』とか『ローマの休日』『ひまわり』を、旭川まで汽車に乗って見に行ってましたよ」

旭川 第一神田舘

旭川 三階小劇場

旭川 旭川映画劇場

旭川 北星劇場

旭川 銀座劇場

佐藤圭子さんが訪れていた1960年代の旭川は、映画館の黄金期。
19の映画館があったようですが(出典は『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』日本図書センター、1999年)、22年は、従来型の映画館は姿を消し、イオンシネマ旭川駅前、シネプレックス旭川と2軒のシネマコンプレックスになりました。

南富良野村 移動映画会担当


佐藤茂さん(元町役場に44年間勤務 元教育委員会教育長 座談会世話人:85歳)
「私は、昭和31年4月に、南富良野村役場(1967年より南富良野町)に奉職させていただいて、翌昭和32年4月に教育委員会に配属になりました。
年間計画のなかで、村には娯楽的なものがないことから、村内の移動映画会を行ったんです。
進駐軍の払い下げのNATCO(ナトコ)映写機っていうのがあって、10キログラム程度あったかな。それと通常は35㎜フィルムなんですが、私が持っていってたのは16㎜フィルムでした」

移動映画会 モデル佐藤茂さん

「村内8カ所を回ります。8日間かけて。村内の出張で、旅館に泊まるんです。
下金山(しもかなやま)、金山、鹿越(しかごえ)、東鹿越、幾寅、落合(おちあい)、北落合、狩勝(かりかち)ですね。
北落合だけは、列車がないのでトラックで行きました。
当時は、婦人会青年団、場所によっては、青年団、あるいは婦人会の人たちに、駅のホームに来てもらって、機材を会場までリヤカーで運ぶんです」。

リヤカー移動風景

「変圧器も持っていきました。コードとか。
映写会はやったけれど、もうほとんど映画のタイトルは覚えてません(笑い)。
あんまり教育的なものをやっても、大人に集まってもらえないもんです。
時代物の映画が喜ばれました。片岡千恵蔵だとか、市川歌右衛門。後半は東千代之介とか。
だいたい封切られてから1年遅れくらいのもんだね。チャンバラですね。バッタバッタと悪いもんを倒していくと、みんな拍手してくれてね。
劇場がほぼいっぱいっていうと、70~80人以上は入ってたと思いますねえ。
仕事が終わってからだから、始まるのは18時くらいから。
電圧が下がると、『ギス(技師)!!! 声聞こえねぇぞ』って、気合入ってて、そうするとバケツに水くんで、雑巾でモーターを冷やしながら、そんな苦労しながら映写会をやりましたね。
映写会が終わって、掃除しようとしたら、床には焼酎の瓶だらけでした(笑)」
 
映写会を行う会場の電気設備はまちまちで、電気がなかった北落合では、農家の耕運機を借りて、発電機を回したそうです。

イラスト 梅田正則
プロフィール
48年、新潟生まれ。テレビ・映画美術監督。
テレビドラマ「北の国から」「踊る大捜査線」「ロングバケーション」「これから~海辺の旅人たち~」(主演:高倉健)、「若者たち2014」ほか数多くの作品の美術監督をつとめる。22年、実写世界からアニメに挑戦。69~74歳まで6年かけて「ケンタのしあわせ」(3分55秒)を、梅田正則監督作品としてついに完成させた。



ライター
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役
東京生まれ。女優を経て、海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサーに。96年、香港で高倉健と出会う。13年、高倉健の養女に。
著書に、「高倉健、その愛。」、「高倉健の美学」、「高倉健の想いがつないだ人々の証言~私の八月十五日」。

カメラマン
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役
東京生まれ。女優を経て、海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサーに。96年、香港で高倉健と出会う。13年、高倉健の養女に。
著書に、「高倉健、その愛。」、「高倉健の美学」、「高倉健の想いがつないだ人々の証言~私の八月十五日」。