岩波ホールロビーにはられた過去の上映作品のチラシ=岩波ホール提供

岩波ホールロビーにはられた過去の上映作品のチラシ=岩波ホール提供

2022.7.13

岩波ホール閉館 世界と映画を知り、学んだ 「仕方がない」と思えない:女たちとスクリーン⑪

「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
 

鈴木隆

鈴木隆

7月29日、岩波ホールは幕を閉じる。閉館のニュースに、多くの映画ファン、映画関係者はショックを受けた。上映された作品はもとより、ホールとの出会いに自身の歴史や人生を重ねる人も少なくない。元岩波ホール企画室長の大竹洋子さんと髙野悦子さんの元秘書・石井淑子さんへのインタビュー最終回。2人の話は、岩波ホールに足を運び、ホールを愛し続けてきた多くの映画ファンの思いと深く重なり合う。映画とともに歩んできた髙野さんとその仲間たちへの大いなる感謝を込めてお届けする。


岩波ホールの元スタッフの大竹洋子さん(左)と石井淑子さん=藤田明弓撮影

岩波ホールの大竹洋子さん、石井淑子さんに聞く④

--閉館の話を聞いたときどう思った。
 
大竹 ショックでした。詳しい事情は分からないが仕方がないとは思えなかった。
 
石井 ニューヨークの友人からメールをもらって知った。ネットで見てすぐに大竹さんに連絡した。最近は映画を見に行ってもお客さんが少なかったが残念でならない。経営的には大変だと感じていたが、いよいよ、来るべきものがきたのかという気持ちだった。帰るべき所が不意になくなってしまった感覚だ。ホールをやめてからも、何かというと、神保町に行ってホールで映画を見て、近くの本屋さんに行っていた。コロナ禍で大変だろうと考えていたが、改装の工事をしていたので、しばらくは大丈夫だろうと思っていた。
 
--髙野さんが亡くなって9年、ホールは遺志を引き継いできた。ホールのあり方は時代にそぐわなかったのか。
 
大竹 そこまではいっていなかったように思う。
 
石井 ネット配信やスマホ、タブレットで映画を見る人も増えているようだが、私たちにしてみれば、見知らぬ人と映画を見るのも楽しさの一つ。例えば、アフガニスタンの映画の子供が卵を売る場面で、子供が卵を落としてしまった時に「アッ」と声を出したお客さんがいた。共通体験としてそういうことも楽しみだったが、それが薄れてきたのだろうか。
 
お客さんが高齢化してきたのも一因かもしれない。コロナ禍で中高年齢層が外出を自粛して、昨年秋ごろに感染者数などが落ち着いてからも、お客さんは戻らなかった。当時ホールに映画を見に行ったが、数えられるくらいしか入っていなかった。大丈夫かなって思っていた。


岩波ホール事務所内で打ち合わせをする高野悦子さん(左)と秘書の石井淑子さん(1997年)=石井さん提供
 

少数派に目を向ける姿勢に変わらぬ支持

--岩波ホールはその役目を終わった、という人もいる。
 
大竹 そんなことは全くない。岩波ホールが築いてきたことは今もたくさんの人にとって大切であり続けると思っている。
 
石井 女性や弱者、少数派の人たちに目を向ける姿勢は今も支持されていると思うし、役割が終わったとも思わない。でも、形態が変わってきたのかもしれない。映画に限らずだけど、さまざまなものが画一化して、大きなものにのみこまれてしまう心配を感じている。
 
--髙野さんのような人は今後でてくるのでしょうか。
 
石井 どうでしょうか。違う形でならでてくるかもしれないけど……。
 

岩波ホールの場内=岩波ホール提供

人生の師。映画の師

--大竹さんや石井さんにとって岩波ホールとは。
 
大竹 第2の母校だと思っている。第1は(出身の)日本女子大。映画のことも、社会のことも、世界のことも数え切れないくらいホールで学んだ。
 
石井 ホールがなかったら、アフリカに興味を感じなかったろうし、アンジェイ・ワイダ監督をはじめ優れた監督たちの映画を見に行っていなかったかもしれない。権力にあらがうこともそう。学校で学べなかったことをホールでたくさん学ばせてもらった。
 
大竹 私も心からそう思う。そういったお客さんも多かったのではないか。


大竹洋子さん=藤田明弓撮影
 

お墓に謝ってきた

--改めて振り返っていただくと、個人的なことを含めて、髙野悦子さんはどんな存在だったのでしょうか。
 
石井 2017年にホールを一端退職し、そのあとアルバイトとして週に2日ぐらいお世話になっていたから、18年までホールで働いていた。それからは、時々足を運んで見守っていた。
 
髙野さんは、特に映画を通していろいろなことを教えてくれた人。いつまでも一緒にいたかった。ホールが閉館すると知った2、3日後に、髙野さんのお墓に行って「こういうことになってしまいました。申し訳ありません。仲間たちはみんな、志を持ってがんばってくれたけど、私も力になれませんでした」と謝ってきた。
 

石井淑子さん=藤田明弓撮影

女性映画人を後押ししてきた

大竹 1995年に定年でホールを卒業した。ただ85年から「東京国際女性映画祭」に(プロデューサーとして)かかわって、95年以降は専従として、東京国際女性映画祭のジェネラルプロデューサーだった高野さんのもとで一緒に活動してきた。髙野さんは東京国際女性映画祭を27年間、先導してくれた。
 
私は40歳から岩波ホールで働き始めて、時には夜中までがむしゃらに働いた。個人的には、髙野さんは私を一人前にしてくれた人。髙野さんや岩波ホールはもちろん、東京国際女性映画祭も髙野さんを中心に多くの女性映画人を輩出させるための後押しもしてきたと思っている。
 

岩波ホール

東京都千代田区神田神保町交差点の岩波神保町ビル内にある映画館。1968年にオープンし演劇、講演会など多目的のホールとして使用されていたが、74年2月から東宝東和の川喜多かしこと髙野悦子が中心になり、大手配給会社が扱わない数々の名作・秀作を発掘して日本に紹介する「エキプ・ド・シネマ」運動を展開してきた。第1回作品はインドの巨匠サタジット・レイ監督の「大樹のうた」。ミニシアターとして草分け的な存在にもなった。総支配人は岩波書店の社長を務めた岩波雄二郎の義妹で映画運動家の髙野悦子で、2013年2月の死去以降はめい(雄二郎の娘)の岩波律子が支配人を務めてきた。コロナ禍を含む経営環境の悪化を原因に22年7月29日の閉館が決まっている。

ライター
鈴木隆

鈴木隆

すずき・たかし 元毎日新聞記者。1957年神奈川県生まれ。書店勤務、雑誌記者、経済紙記者を経て毎日新聞入社。千葉支局、中部本社経済部などの後、学芸部で映画を担当。著書に俳優、原田美枝子さんの聞き書き「俳優 原田美枝子ー映画に生きて生かされて」。

カメラマン
藤田明弓

藤田明弓

ふじた・あゆみ 1987年生まれ、フリーカメラマン。オリンパスペン・ハーフを使い、ライブやサブカルチャーを撮影。人物撮影を主に雑誌やテレビのスチールカメラマンとして活動中。

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