毎日映コンで録音賞を3度受賞した紅谷愃一

毎日映コンで録音賞を3度受賞した紅谷愃一

2022.2.13

毎日映コンの軌跡⑫ あこがれの技術賞 水準の高さと貢献度見極め

「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。

映画賞は数多くあれど、ほとんどが対象は作品、俳優とせいぜい監督、脚本まで。縁の下の力持ちたる技術者に目配りした賞は少ない。だから、毎日映コンの技術賞は「あこがれ」ともなる。

録音賞を3度受賞し、技術部門の選考委員も務めた紅谷愃一(べにたにけんいち)は、第23回(1968年度)、「黒部の太陽」で初受賞した。大映京都撮影所から日活に転じ、助手から技師に昇進して間もなくだった。黒部ダム建設現場の効果音と、その中でのセリフのやりとりなど、「音の処理を計算し整理することで、迫力あるドラマに仕上げた」と評価された。

紅谷は「当時技術者への賞は、毎日映コンしかなかった。いつか取りたいと思っていた」と当時の喜びを振り返っている。「励みになりました。半面、荷が重くなるという思いもありました。後輩のためにも、自分の水準を上げていかないといけない。責任感も出てきます」

その後、第35回で南北米大陸を縦断ロケした「復活の日」、第38回では、南極で撮影した「南極物語」での仕事が評価されて受賞した。「大変な撮影で賞をもらったのは、うれしかった。他の技師へのライバル意識もあった。運、不運もあるけれど、名前も売れるし」と笑う。

選ぶ側として、厳しい意見をあえて主張することも。毎日映コンの選考委員は、評論家と専門的知識を持った技術者が半々。ともすれば作品の評価に引きずられがちだが、「作品が良くても技術水準が低いものに賞は出せない。技術が作品とどう関わったか、どう貢献したか。監督の功績か技師の腕なのか。見極めが大事」と語る。そして「“格”を維持し、技術者に夢を与える賞であってほしい」と注文をつけるのである。