2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。
2022.5.22
不器用に戦後生き抜いた 高倉健をしのぶ
筆者の映画評論家松島利行はひとシネマ編集長勝田友巳の二代前の毎日新聞映画担当記者。
2014年11月20日夕刊に掲載の追悼文を再掲載します。
健さんは無口な人ではない。むしろ話好きだったかもしれない。中学・高校時代は英会話部とボクシング部をつくって占領軍将校の子弟と交遊し、映画を見まくった。仲間とアメリカに密航しようと試みもした。貿易商を夢見て明治大に学び、進学で世話になった恩師の友人が顧問をしている相撲部に入ったものの、上意下達の人間関係になじめず、酒乱で野放図に暴れたりもしたが、好きな映画に目を向けて恋をして結婚を考える。この話で健さんは彼女がどんな人か語りたがらなかったけれども、松竹大船撮影所でエキストラのバイトをしていて知り合った若い女優だった。それが父親の逆鱗(げきりん)に触れて結婚は許されず、故郷を捨て再び上京して映画の道を求め、小田剛一は「高倉健」と改めて東映第2期ニューフェイスとなる。
■ ■
やくざ任俠(にんきょう)路線でスターとなったからか体育会系の硬派のイメージで語られるが、ジャズシンガーで映画でも人気だった江利チエミとの結婚にいたるまで、健さんの青春はいわゆる「戦後民主主義」の中にあっただろう。
「網走番外地」の冒頭で流れる歌声には、演歌ともいささか異なる情を切り捨てた響きがあってしびれた。健さんの出自は、北九州の炭坑と港湾労働者を仕切る遠賀川の川筋者の、作家火野葦平にも通ずる荒くれ者の暴力と仁義の世界にある。東映映画での裏切りや理不尽に耐えて死地に赴くアウトローの男の意地が、1960年代に始まる若い世代の反乱に呼応する。彼らの闘争や恋の挫折の怨念(おんねん)もスクリーンで昇華した。
おしどり夫婦と言われたチエミとの結婚生活は、彼女の母親代わりでもあった清川虹子やその仲間の女優が夜ごと家で酒盛りをするようになり、自らの酒乱を自覚して酒を断って撮影現場でもコーヒーばかり飲んでいた健さんには苦痛になる。撮影所から疲れて帰っても妻たちの酒宴を見て再び大泉の東映撮影所に戻り、撮影所の食堂に夜食にやって来た当時まだ助監督の澤井信一郎を車に乗せ、そのまま北陸まで走ったこともある。この時は数日後にハリウッドに一緒に渡った。R・アルドリッチ監督の「燃える戦場」に出た頃のことで、その後まもなく離婚する。彼は直情系というより気配りが多く繊細なのだろう。健さんを巡るゴシップには「パリでエイズのために死亡」との一部報道もあったが、その方面でもむしろ常識人だったと思う。
■ ■
任俠映画が実録路線に移行して、深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズでは俊藤浩滋プロデューサーが重用する菅原文太が東映スターのトップとなった。大川博・東映社長の他界で後継者を巡って熾烈(しれつ)な争いがあり、「山口組三代目」出演の頃から与えられる出演作に疑問や不満を持ち、海外や他社作品への出演に気持ちが移った。東映の仲間だった佐藤純彌や降旗康男らの監督が他社で撮る作品に出演、また、松竹の山田洋次監督の「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」などが評判を得て、無法者の世界から世俗の庶民に回帰する。
毎日芸術賞、文化功労者、文化勲章にいたる晩年は優等生に過ぎたであろうが、戦後日本を生きる男をスクリーンに演じただけでなく、不器用でも自らがその時代を生き抜いたのである。