「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。
2022.2.13
映コンの軌跡⑲ 表彰式は晴れ舞台
表彰式会場 回重ね盛大に華やかに演出
毎日映画コンクールの表彰式は例年2月に行われる。毎回、受賞者の大半が出席する晴れ舞台だ。
第1回の表彰式は1946年9月23日、当時東京・有楽町にあった毎日新聞東京本社の会議室を利用した。賞の数は七つ、終戦直後の混乱も収まらぬ時期とあって、こぢんまりとしていた。回を重ねるごとに賞の数も増え、第6回からは同・日比谷公会堂に会場を移し、ファン1500人を招待して受賞作の上映会付きで開催。途中、第32~35回が同・一ツ橋へ移った毎日新聞本社内だったことを除き、都内のホールやホテルなどに場所を替えつつ、盛大に行われてきた。
表彰式は全受賞者が壇上で一言あいさつするのが慣例で、喜びの言葉は短いながら感動的だ。第41回、「海と毒薬」で男優主演賞の奥田瑛二は「初めて両親を会場に呼びました」と感極まって絶句。第64回で初監督作「劔(つるぎ)岳 点の記」が日本映画優秀賞と撮影賞を受賞した木村大作は、壇上で小躍りして喜びを表した。受賞者に賞金は出ないものの、協力企業からの副賞とトロフィーが贈られる。このトロフィーも、時代とともに姿が変わってきた。彫刻家にデザインを依頼し、菊池一雄、向井良吉、大森達郎らが担当。初期の頃のトロフィーが受賞者から流出し、古書店で売られていたこともあるとか。十数万円の値が付いていたという。
第64回から第74回までは、神奈川県川崎市の会場で行われた。日本映画大学や撮影スタジオを抱え、「映像のまち」を掲げる同市が毎日映コンを誘致したのだ。受賞者がファンの前を歩いて入場するなど華やかに開かれた。第75回からは東京に戻り、目黒パーシモンホールが会場となっている。