第1回毎日映画コンクール表彰式。左端が音楽賞の早坂文雄、一人置いて演技賞の小沢栄太郎=1946年

第1回毎日映画コンクール表彰式。左端が音楽賞の早坂文雄、一人置いて演技賞の小沢栄太郎=1946年

2022.2.14

毎日映コンの軌跡⑤ 拡大する選考委員 作る側も見る側も

「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。

第1回(1946年度)、27人。第20回、300人。毎日映コンの選考委員の合計数である。賞の数が増えるにつれて、選考委員の数は増えていった。

第1回で設けられた賞は、作品に贈られる「コンクール賞」と「民衆賞」、個人賞として脚本▽演出▽演技▽撮影▽音楽――の7賞だったのが、第20回では、作品賞「日本映画賞」に加え、個人賞は、監督▽男優主演▽女優主演▽男優助演▽女優助演▽脚本▽撮影▽美術▽音楽▽録音――と10賞、ほかに教育文化映画賞とニュース映画賞、大藤信郎賞があり、各賞ごとに10~20人の選考委員がいた。委員の顔ぶれは多士済々。第20回の名簿には、飯田心美、大黒東洋士ら映画評論家、牛原虚彦、田中絹代ら映画人、岡本太郎、東郷青児、司馬遼太郎ら文化人、中曽根康弘の名前まである。

個人賞は討議で決めた。もめると大変だ。第19回では録音賞が決まるまで、3時間半。「赤い殺意」の神保小四郎を支持する委員と、「仇討(あだうち)」の野津裕男を推す委員が拮抗(きっこう)。討議と投票を6回繰り返しても決着せず、所用で中座し熱海へ向かった委員に、到着するのを見計らって電話を入れて投票させ、ようやく神保に決定した。選考は、映画の斜陽化や毎日本社の経営状況の影響も受けた。第26回から俳優の助演賞がなくなり、第30回から個人賞の選考が投票のみになったが、いずれも第38回から復活。苦しい時代を乗り越えた。

現在は作品賞「日本映画大賞」など21賞を、100人を超す映画評論家、文化人、映画製作者らが原則として討議で決めている。「(評論家だけでなく)映画を作る側の者まで加わって選ぶ賞があれば、映画の向上に役立つだろう」。毎日映コンの構想段階で、東宝重役だった森岩雄はこう語ったという。その精神は脈々と受け継がれている。

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