「愛のコリーダ」訴訟判決を受け「有罪になった方が闘いやすかったのに」と話す大島渚氏(右)と、三一書房の竹村一社長=1979年10月19日

「愛のコリーダ」訴訟判決を受け「有罪になった方が闘いやすかったのに」と話す大島渚氏(右)と、三一書房の竹村一社長=1979年10月19日

2023.10.16

〝わいせつ〟をめぐるゲームの規則 権力は何を恐れるのか:よくばり映画鑑賞術

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

「日本では、商業的な裸体の表象は、性毛と性器の露出を禁ずる倫理規定のせいで、特異な発展をとげた。ヌード写真だけでなく、コミック、アダルトビデオを含む性のビジュアル表現のジャンルは、性器とその周辺部分をタブーとすることで、かえってありとあらゆる想像力(「劣情」とも呼ばれる)をかき立てる方向へと、文化的な洗練の度を――もしそれを『洗練』と呼ぶとすれば――加えたのである」(上野千鶴子「発情装置 新版」岩波現代文庫、2015年、105ページ)
 
近代市民の末裔(まつえい)たる我々は、社会の要請に応じて性の抑圧を内面化し、性的欲望を統御することで主体を形成する。しかし、性は禁忌化されることでかえってその価値を高める。秘すれば花。表現を禁じられた性器は人々の欲望をかき立てる空虚な中心となり、その周縁にさまざまな虫たちを招き寄せる。ミシェル・フーコーが喝破したように、性をめぐって引かれた境界線は、そのまま人々の欲望の侵入線に転じるのである。
 

欲望の規制線が表現を洗練する

人間の創造性は境界線と戯れることでしばしばその本領を発揮する。映画も例外ではない。周知のように、古典的ハリウッド映画を縛っていた非常に強力な規制は、同時に、その映像表現を洗練の域にまで高らしめる一因となった。
 
政府(国家権力)による検閲を避けるために、ハリウッドは映画製作倫理規定(プロダクション・コード、ヘイズ・コード)という自主検閲規定を制定・運用した。当然ながら、性的な描写は真っ先に規制の対象となる。「完全なヌード」を描くことは言うまでもなく、「過剰で肉欲的なキス、肉欲的な抱擁、挑発的な姿勢や仕草」は禁じられ、「寝室は、良識と節度をもって取り扱うこと」が求められた(加藤幹郎「映画 視線のポリティクス――古典的ハリウッド映画の戦い」筑摩書房、1996年、162、164ページ)。
 

「或る夜の出来事」のジェリコの壁

スクリューボール・コメディーの最古典として知られる「或る夜の出来事」(フランク・キャプラ監督、34年)は、婚前交渉に対する強い戒めとして「ジェリコの壁」という設定を導入する。ジェリコ(エリコ)の壁とは、聖書に登場する古代都市エリコ(現在のパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区に含まれる)の城壁のことである。城壁はイスラエルの民が吹き鳴らした角笛の音とともに崩れ落ちたとされている。
 
映画では男女が一線を越えることのないように、ベッドのあいだに1枚の毛布を吊るし、それを「壁」に見立てている。当然のことながら物理的な防御力はほとんど期待できない。しかし、心理的な効力は絶大である。最終的に、オモチャのトランペットの音色に続いて「壁」は崩落する。新婚初夜の2人が一線を越えたことを洒脱(しゃだつ)にほのめかしているのである【図1、2】。倫理規定の目をかいくぐるための安全装置であると同時に、観客に満足感を与えられるような物語上の仕掛けとしても見事に機能している。




【図1、2】キャプラは2人のベッドのあいだに毛布をつるし、それを「ジェリコの壁」に見立てることで、「良識と節度」のある寝室を描いた。最終的に「壁」は取り払われ、2人の結びつきが暗示的に表現される。(「或る夜の出来事」フランク・キャプラ監督、1934年[DVD、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント、2003年])
 

列車とトンネルが表すものは……規制と戯れたヒッチコック

あるいは、巨匠アルフレッド・ヒッチコックもまた、プロダクション・コードと軽やかに戯れてみせた映画作家と言えるだろう。「汚名」(46年)では、短いキスシーンを重ねることによって「過剰で肉欲的なキス」という規定をかいくぐった。また、「北北西に進路を取れ」(59年)のラストでは、性行為を象徴的な表現に置き換えている。寝台車のベッドに倒れ込む2人のショットに、列車がトンネルに進入するショットをつなげたのである【図3、4】。このラストについて、ヒッチコック自身は「これまでわたしが撮った映画のなかでもいちばんわいせつなショットだ」と述べ、「列車は男根のシンボル」であることを自ら認めている(「定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー」山田宏一、蓮實重彥訳、晶文社、90年、137ページ)。



【図3、4】寝台車のベッドに倒れ込む男女のショットに、トンネルに進入する列車を捉えたショットをつなげている。「トンネルに進入する列車」を倒れ込んだあとの男女の性行為の比喩として利用しているのである。(「北北西に進路を取れ」アルフレッド・ヒッチコック監督、1959年)
 
もちろん、「北北西に進路を取れ」の最後のショットが捉えているのはあくまでも「トンネル」と「列車」である。しかし、イメージは常に多義的であり、それをどのように解釈するかは観客に委ねられている。その際、作者の言葉に従う義理もない。観客は、自らの知識や、自身が属している文化の習わしにしたがって表象を解読する。たとえヒッチコックがそのような解釈を提示していなかったとしても、精神分析以降の世界を生きる私たちは、「トンネルに進入する列車」の象徴性をたやすく読み解くだろう。同時に、たとえヒッチコックがそう言っているとしても、所詮はひとつの捉え方にすぎない(別の見方をしてよい)。イメージの解釈に唯一の正解などないからである。
 

ヘイズ・コードの後はレーティング

ハリウッドの映画製作倫理規定は68年に撤廃される(実質的にはこの時点ですでに形骸化していた)。しかし、映画の性表現が完全に自由になったわけではない。過激な表現はレーティング(年齢制限)に引っかかる。もちろん、それを売りにすることは可能だが、リーチできる観客の母数は必然的に小さくならざるをえない。


ヒッチコックの映像表現については、公開中のドキュメンタリー「ヒッチコックの映画術」で詳しく検証されている=© Hitchcock Ltd 2022

同様のレーティングシステムは多くの先進国で採用されている。日本では映倫(一般財団法人映画倫理機構)がその審査に当たっている。「PG12」や「R15 +」、「R18+」といった表記は日本の映画観客にはおなじみのものだろう。
 

文学作品のわいせつ性争った「チャタレー事件」

映画の表現を監視するのは、業界の自主規制団体だけではない。その上位には国家の法(刑法)がある。映画に限らず、表現物の「わいせつ性」は国家の一大関心事であり続けている。たとえば文学の世界では、D・Hロレンスの翻訳出版をめぐる「チャタレー事件」(57年判決確定)や、マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え事件」(69年判決確定)のように、作品中の性描写がわいせつ物頒布罪(刑法175条)に抵触するとして刑事告訴された例が広く知られている。表現の自由とわいせつの関係が注目を集めた事件で、いずれも有罪が確定した。表現の自由は「公共の福祉」によって制限を受けるという考え方が示されたのである。


チャタレー事件公判 被告席に座る伊東整(左)と小山久二郎=1952年7月、阿部三郎撮影

アートの世界では、ろくでなし子による女性器をかたどった作品が、やはり刑法175条に抵触するとして刑事訴追の対象となった事件が記憶に新しい。「デコまん」と呼ばれる立体造形物の展示については控訴審で無罪が確定したものの、女性器の3Dデータを頒布した行為は最高裁が上告を棄却したことで有罪となったのである(2020年)。
 
一部とはいえ、刑法175条絡みで起訴されて無罪を勝ち取ったのは、「愛のコリーダ事件」(1982年)以来のことであった。「愛のコリーダ」は大島渚が監督した映画作品のタイトルとして知られている(76年公開)。検挙起訴の対象となったのは、映画の脚本や宣伝写真を掲載した同名の書籍である。1審2審とも無罪が言い渡され、検察が上告を断念したことで判決が確定した。


「デコまん」展示は無罪となったものの、女性器の3Dデータ頒布は有罪が確定した最高裁判決を受け、記者会見で「時代錯誤の判決」と語るろくでなし子(中央)=2020年7月16日、山本将克撮影


権力の過剰介入を防ぐには

「愛のコリーダ」に先立ち、映画そのものが刑法175条違反として起訴された例に、「黒い雪」(武智鉄二監督、65年)をめぐる「黒い雪事件」(69年判決確定)や、成人映画4作品をめぐる「日活ロマンポルノ事件」(80年判決確定)がある。起訴の対象となったのは、すべて映画倫理管理委員会(映倫)による審査を通過していた作品だった(後者の事件では映倫の審査員3人も起訴された)。いずれも被告は全員無罪となったものの、映画業界の自主規制が、上位規則たる国家の法によって問題視された事件であり、映画界に与えた衝撃は大きかった。
 
公権力による「検閲」は、表現の自由にとって最大の敵である。戦後の日本においては憲法によって明確に禁止されている。しかし、わいせつ物頒布等の罪を定めた刑法175条を根拠とする取り締まりは、ともすれば事実上の検閲となりかねない。国家権力の行き過ぎた介入を防ぐためには、国民による不断の監視が不可欠である。それが表現文化の発展を支え、その自由を守る「ジェリコの壁」となる。「壁」の崩落を防ぐためには、各人が表現(規制の歴史)に対する理解を深めるとともに、表現を見つめる目そのものを鍛えておかなければならない。

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶応大法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。大学在学中に見た小津安二郎の映画に衝撃を受け、小津映画を研究するために大学院に進学する。現在はライフワークとして小津の研究を続けるかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。


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