「オッペンハイマー」より ©Universal Pictures. All Rights Reserved.

「オッペンハイマー」より ©Universal Pictures. All Rights Reserved.

2024.3.07

〝原爆の父〟半生描く圧巻の映像叙事詩 「オッペンハイマー」が映さなかったもの

〝原爆の父〟と称される天才物理学者の半生を描いた「オッペンハイマー」。第二次世界大戦末期、広島、長崎に投下された原爆開発の舞台裏と天才科学者の葛藤を、壮大なスケールで映像化。日本公開までに曲折を経た一方、アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞など7部門を制覇。賛否渦巻く問題作を、ひとシネマが独自の視点で徹底解剖します。

勝田友巳

勝田友巳

第96回アカデミー賞で、作品賞など13部門で候補入りしている大本命。ジャンルにくくれば〝原爆の父〟ロバート・オッペンハイマー(1904~67年)の伝記映画だが、その枠をはるかに超えたスケール感、膨大な情報を詰め込みながら滞ることのない語り口、個人の葛藤と世界の激動が無理なく並ぶ構成、そして圧倒的な映像体験。一人の人間の半生記でも、これはIMAXの大画面で見たくなる。オスカー最有力との呼び声も納得である。しかし同時に、原爆被害を知る国から見るとひっかかりもあるのだった。
 


ナチスと核開発競争 ロスアラモスの内幕

映画は、第二次世界大戦後の冷戦期、オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)が共産主義者として米議会公聴会で追及される場面と、戦争中の原爆開発の経緯、二つの時制を行き来しながら進んでゆく。柱は三つ。一つはナチスドイツとの原爆開発競争の緊迫感だ。
 
米国の大学を優秀な成績で卒業したオッペンハイマーは英国に留学するものの実験下手で落ちこぼれ、理論物理学に転じてドイツに留学、たちまち頭角を現す。第二次世界大戦が勃発すると、米軍グローブス准将(マット・デイモン)の求めで原爆開発のための「マンハッタン計画」を主導することになる。
 
ドイツに先んじた原爆実用化を目的に、ニューメキシコ州ロスアラモスに研究所を中心とした町を建設し、国内外から優秀な科学者を集めて家族ごと隔離。ナチスに先を越されてはならぬというプレッシャーの下、オッペンハイマーはくせ者ぞろいの研究所内での人間関係や、ソ連側スパイの存在と自身に対する共産主義者疑惑といった障壁にぶつかりながら、新兵器開発に突き進む。
 
前半の山場は、45年7月の核実験「トリニティー」だ。米軍は、圧倒的劣勢にもかかわらず降伏の気配がない日本軍との戦争終結のため開発を急ぐ。一方で、原爆開発に懐疑的になる研究者も現れ、オッペンハイマーも揺れ始める。時間と良心と闘いながら迎えた核実験当日。
 
ノーラン監督は閃光(せんこう)と爆風、キノコ雲といったアクションのすさまじさに加え、実験を見守る科学者や軍人のリアクションも効果的に捉えてみせる。核爆発の内面的な衝撃も表現するのだ。
 

嫉妬と野心 渦巻く公聴会

もう一つは、オッペンハイマーと核開発を巡る政治的駆け引き。悪魔的兵器を見れば戦争はなくなるといった希望と裏腹に、戦後の冷戦構造の中でソ連との核開発競争が激化する。原爆の威力を目の当たりにして水爆開発に反対するオッペンハイマーは、トルーマン大統領から臆病者とののしられ、共産主義者として糾弾される。オッペンハイマーの失脚を、米議会による密室での意見聴取の攻防の中に描いていく。
 
ここでの見せ場は、米原子力委員会委員長のルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)とオッペンハイマーとの確執である。ストローズは労働者階級から銀行家として巨万の富を稼ぎ、政界に身を転じた上昇志向と野心の塊だ。しかし才能ではオッペンハイマーの足元にも及ばない。その屈折した心理が次第に明らかになる展開が、実にスリリング。ダウニーはストローズを粘着質に演じて、助演男優賞候補となっている。
 

エミリー・ブラント演じる妻キティ(上)とフローレンス・ピュー演じる学生時代の恋人ジーン(下)

2人の女性とのもつれた関係

もちろん伝記映画だから、人間・オッペンハイマーの苦悩と葛藤にも肉薄する。ここでノーラン監督が力点を置いたのは、優れた科学者としての功績もさることながら、オッペンハイマーと2人の女性との関係である。
 
学生時代の恋人ジーン(フローレンス・ピュー)との出会いと別れ、オッペンハイマーの成功と失脚に寄り添い精神的支えとなった妻キティ(エミリー・ブラント)の存在。人間的な弱さと複雑さを浮き彫りにする。助演女優賞候補のブラントもさることながら、オッペンハイマーを翻弄(ほんろう)するジーンを好演したピューも光る。
 
これだけの要素を3時間に凝縮して、一気に見せる。一人の人間の肖像を描く伝記映画ながら、核分裂のイメージや核実験の描写に映像派としての力量を存分に発揮する。時に理解が追いつかない部分があっても、その勢いと迫力で押し切ってしまう。圧巻の叙事詩である。
 

被爆者描かぬ不思議

一方で、唯一の戦争被爆国・日本から見ると、いささか複雑な気分も残る。映画の中では繰り返し、原爆投下で予想される人的被害や連鎖反応による地球破壊の危険性が説かれ、オッペンハイマーを含む科学者たちの迷いも描かれる。
 
さらに、原爆投下後の惨状の記録映像を見るオッペンハイマーの、がくぜんとした表情も映し出す。ところが、オッペンハイマーの視線の先にあるはずの記録映像は全く画面に出てこない。どういう配慮が働いたのか?
 
冷戦体制下から今に続く核開発競争にはっきりと異を唱えながら、その出発点である広島・長崎への原爆投下の是非については判断を保留する。2023年7月、米国で同日公開された「オッペンハイマー」と「バービー」を組み合わせた画像がSNSに流れ、映画の公式アカウントが好意的反応を示して炎上したのも、ことさら無神経さの表れというわけではないだろう。リベラル層を含む米国が抱える核爆弾への両義性が、欠けたカットに凝縮されているように見えた。
 
「オッペンハイマー」は3月29日(金)から全国公開

ライター
勝田友巳

勝田友巳

かつた・ともみ ひとシネマ編集長、毎日新聞学芸部専門記者。1965年生まれ。90年毎日新聞入社。学芸部で映画を担当し、毎日新聞で「シネマの週末」「映画のミカタ」、週刊エコノミストで「アートな時間」などを執筆。