イントロダクション © 2020. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

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2022.5.02

先取り! 深掘り! 推しの韓流:「イントロダクション」「あなたの顔の前に」よもやの涙 ホン・サンスの新境地

映画でも配信でも、魅力的な作品を次々と送り出す韓国。これから公開、あるいは配信中の映画、シリーズの見どころ、注目の俳優を紹介。強力作品を生み出す製作現場の裏話も、現地からお伝えします。熱心なファンはもちろん、これから見るという方に、ひとシネマが最新情報をお届けします。

ひとしねま

八幡橙

先取り!深掘り!推しの韓流


「豚が井戸に落ちた日」以来、27年で27作

1996年、ソウルに暮らす4人の男女の姿を描いた「豚が井戸に落ちた日」で長編デビューしたホン・サンス。平凡な人々の日常に潜む闇を見つめた、小説的とも言える独自の視点は韓国映画界に強い衝撃をもたらした。以降、(主に酒の席での)人と人との会話に焦点を当て、どこにでもありそうな恋愛を時に生々しく、時に哲学やユーモアを交え軽やかに映し出す作風で映画を撮り続けてきた彼は、2022年の今年、第72回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員大賞)を受賞した「THE NOVELIST‘S FILM」(日本未公開)まで、実に27本もの作品を世に送り出している。
 
そのフィルモグラフィーの25作目となる「イントロダクション」と26作目の「あなたの顔の前に」が今回、日本でついに同時公開に。2本続けて鑑賞することで、かつてないまでの新しい驚きと感動に包まれる、27年目にして新境地とも呼べる意欲作となった。
 
昨年、第71回ベルリン国際映画祭銀熊賞(脚本賞)に輝いた「イントロダクション」は、自分の道をいまだ決めかねている一人の若者を巡る三つの物語。韓国とベルリンを舞台に、主人公のヨンホは疎遠になっている父親や夢を抱いて異国に旅立った恋人、さらに母親とその知人である映画俳優らと再会し、会話を交わしてゆく。全編モノクロの映像が、雪の降るベランダやベルリンの街角、まだ冷たい春先の海を背景にさまざまな出会いを美しく浮かび上がらせる。


見えない糸で結ばれた2本の新作

続く「あなたの顔の前に」は一転、長いアメリカ暮らしから突然韓国に戻ってきた大人の女性の一日を豊かな色彩と共に映し出す。
 
故郷を捨てるようにアメリカに移り住んだ元女優のサンオクは、母親が亡くなって以来、久しぶりに韓国に戻り、妹や甥(おい)と再会する。また、昔見た彼女の演技に心揺さぶられ、ぜひ次作に出演してほしいと願う映画監督とも酒を交えて語り合うのだが、彼女には誰にも打ち明けていない、ある事情があった――。
 
ホン・サンス映画のヒロインといえば、15年「正しい日 間違えた日」で初めてタッグを組んで以来、私生活でもパートナーとなっているキム・ミニの印象が強かったが、本作に彼女はプロダクションマネジャーという立場で参加。今回、主人公サンオクは、60年代に活躍したイ・マンヒ監督を父に持つベテラン女優のイ・ヘヨンが演じ、ホン・サンスと初めての顔合わせを果たしている。
 
恐らく20代であろう青年と、60代に差しかかろうかという女性。主人公の設定からして対照的な2作だが、実は見えない糸で結ばれているかのような共通項が随所に見える。その一つは、「抱擁」。「イントロダクション」のヨンホは、年上の旧知の女性や同世代の恋人、同性の友人と時にぎこちなくハグを交わす。「あなたの顔の前に」のサンオクもまた、「イントロダクション」でヨンホ役だったシン・ソクホ演じる甥から抱擁を受けたり、かつて住んでいた場所に建つ店で出会った幼い女の子をいとおしげに抱きしめたりする。
 

「イントロダクション」© 2020. Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

温かく優しいまなざし感じる「抱擁」

これは例えば「女は男の未来だ」(04年)で、キム・テウ演じる映画監督とユ・ジテ演じる美術講師という大学時代の先輩・後輩の2人の登場人物が、食事をしている店で働く女性にそれぞれ別々に同じような誘いをかけるシーンや、「次の朝は他人」(11年)で主人公の映画監督を演じるユ・ジュンサンが3度にわたり同じバー(「あなたの顔の前に」にも登場する「小説」という名の店)を訪れて、店主とほぼ同じ会話を繰り返すという設定にも象徴される、ホン・サンス映画の大きな特徴である「反復」の一つとも言えるが、今回の2作からはそれともまた違う、監督が特別に込めたとおぼしき深い意味が見え隠れする。
 
「まだ見ぬ先(未来)におびえ葛藤する」若い人と、「確たる先(未来)の約束ができない」年を重ねた人。あえて世代の違う両者を一度対比させ、その上でハグ=抱擁をさせ、共に相手を包み込ませる。そうすることでつかの間、両者はすき間を埋め合うのだ。いや、世代の違いがあろうとなかろうと、抱擁することで会えなかったこれまでの空白も、歩み寄りきれない温度差も、違う速度と残量で存在している目の前を流れゆく時間も、すべてがほんの一瞬であろうとも重なり合った「今」になる。
 
わかり合えないことがあったって、人間は相手を抱きしめられるじゃないか。今回の2作から個人的にはそんな、今までになく優しく温かいホン・サンスのまなざしをくみ取った。とりわけ第4作の「気まぐれな唇」(02年)以降、より顕著となった、監督自身をそのまま投影しているかのごとき主人公がひたすら酒を飲み、だらだらと同じところを徘徊(はいかい)し、時に気まずい空気を招きながらくだを巻き続ける様子を切り取った、ホン・サンス映画に共通していた緩くほほ笑ましい作風には見られなかった、まっすぐで純粋かつ真摯(しんし)な思いがここには、確かに感じられたからだ。
 

あなたの顔の前に© 2021 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved

曲折の果てにたどり着いた場所

もう一つの共通する要素は、「祈り」。「イントロダクション」の冒頭ではヨンホの父が、そして「あなたの顔の前に」でも冒頭と最後にサンオクが、神に向かって祈りをささげる。懺悔(ざんげ)なのか、感謝なのか。両者の意味合いは少しずつ違っているだろうが、いずれにせよ神に思いをささげながら始まり、終わる物語だ。
 
2作を通じて、ああ、ホン・サンスはついにここまでたどり着いたのだ、と思った。いわゆる道ならぬ恋であった20歳以上年の離れたキム・ミニとの出会いや、それを巡る家族との確執など、コロナ禍に代表される時代の変化のみならず監督自身が私生活でもきっと通り過ぎてきたのだろう紆余(うよ)曲折が続く、つづら折りの道を経て。
 
長年、ほぼリアルタイムで作品を追い続けてきたが、私は今回、「あなたの顔の前に」を見て初めて泣いた。まさかホン・サンスに泣かされる日が来るとはゆめゆめ思っていなかったのだが。
 
ラスト間近。ざあざあと雨が降り、その中を一つの傘に入って歩く、映画監督とサンオクの後ろ姿が映し出される。そのシーンが印象的だったからか、2本の映画を鑑賞した後、雨がすべてを流し去ったあとのように、くすみが消えて視界が一段澄んだように思えた。
 
そして、サンオクの祈りのことばがよみがえる。
 
私の顔の前にある全ては神の恵みです
今この瞬間だけが天国なのです――
 
物語の詳細や魅力についてあれこれ語ったところで詮無いこともまた、ホン・サンス映画の特徴の一つ。とにかく、見終えた時にはクリアで美しい世界が広がっているだろう。恐らく、きっと。あなたの顔の前に。
 
「イントロダクション」「あなたの顔の前に」とも、6月24日から、東京・ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国で順次公開。

ライター
ひとしねま

八幡橙

やはた・とう 文筆業。フリーライターとして映画を中心にインタビューやレビューを寄稿。現在、「キネマ旬報」で外国映画星取りレビューを担当中。主な著書に「そんなことはもう忘れたよ 鈴木清順閑話集」(八幡薫名義、スペースシャワーネットワーク刊)、さらに小説「ランドルトの環」、「いつかたどりつく空の下」(ともに双葉社刊)がある。