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2023.4.24
昭和館再開に向けて 樋口館主がすべてが焼けてなくなって初めて分かったこと
8月10日、北九州の台所・旦過市場は4月19日に次ぎ、2度目の火災に見舞われた。くしくも市場は再開発のプランが発表され、街は未来へと向かうはずだった。
その一角にある小倉昭和館は1度目の火災では焼け残った。「火災後2週間は上映をやめ、警察や消防、そして何よりも火災に見舞われて後片付けをしている人たちの休憩所や会合の場所として開放した」と小倉昭和館館主の樋口智巳さんは当時を振り返る。
応援メッセージに囲まれて立て替えの準備をする樋口さん
やがて上映を再開した時、焼失と言う悲しみを少しでも紛らわしてほしいと被災者に昭和館シネマパスポートを配った。「自分の人生を嘆きづらいのであれば、他の人の人生で涙を流してもらいたい。映画館の暗闇を利用してほしい」との思いからである。もちろん、チャリティーイベントの場としての役割も果たした。
4月の火事に見舞われて改めて映画館が街の憩いの場になると感じた樋口さんは、ロビーを開放しカフェバーを作ろうと計画した。「映画鑑賞の後だけでなく、みんなが集い映画や街の話ができるスペースを作りたい」と思ったからだと言う。
設計士と打ち合わせをしたまさにその直後、祖父から続いた昭和館が焼け落ちた。「申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。大切なフィルムやDCP(デジタルシネマパッケージ)を焼失してしまった。次にかける館にも迷惑をかけてしまう」と館が燃えている最中に配給会社に「わびの電話を入れ続けた」と。また、「シネマパスポートを発行したばかり。多くの映画を楽しみにしているお客様に申し訳ないと思った」と語る。
焼け跡に少しでも何かが残っていないか瓦礫(がれき)を掘り起こす樋口さんの姿をたまたまテレビで見たとき僕にも思わず込み上げてくるものがあった。実は樋口さんとは担当した追悼特別展「高倉健」の北九州市立美術館分館開催にあわせて特別上映を組んでもらって以来のお付き合いだったからである。
しかし、もともと明るく前向きで行動的な樋口さん。「すべてをなくしたが、悪いことばかりじゃなかった。どれだけ昭和館がみんなに愛されて、必要とされているかが分かった」と言う。
焼失後数々のゆかりのある監督、スタッフ、俳優がメッセージを送り、見舞いなども次々と届いた。それに励まされ、「本来かけるはずだった作品を市内のさまざまな会場で昭和館PRESENTSとしてイベント上映した。昭和館ファンの方がたくさん訪れて励ましてくれた」そうだ。
「本来、映画館の仕事で一番好きなのが場内の売り子だった」と言う樋口さん。上映映画に合わせたコンセッションをたくさん作り出し売ってきた。「『マダム・イン・ニューヨーク』に出てきたラドゥという豆粉のお菓子は640個も売って、それを作るインド料理屋さんがてんてこまいだった」と笑顔いっぱいに思い出を語ってくれた。
そんな中、再建に向かう気持ちが徐々に醸成されていった。「新型コロナウイルス禍のミニシアター・エイドの補助金は受け取らなかった。周囲の旦過市場や飲食店への補助がないときに昭和館だけが頂くわけにはいかなかった。昭和館は樋口家3代が守ってきたのでできる限り自分たちでなんとかするという意識が強かった」そうである。
表通りに残る昭和館の看板
しかし、「焼けてすべてを失ったときに手を差し伸べてくれたこの街やゆかりの人々と一緒に映画館をやっていこうと考えを改めた」そうだ。樋口さんはそのけじめも含めて、この春祖父から続く昭和興業(株)の映画部門から独立し、小倉昭和館(株)として新しい会社を設立したのだ。
再開する映画館は1スクリーン。旧館では至らなかった舞台周り、バリアフリーやパブリックスペースなどに手をつけるそうだ。12月13日から新たに始まる北九州国際映画祭にオープンの照準を合わせている。もちろん北九州市の劇場唯一の35mmフィルムの上映も引き続き行う。樋口さんのことだからもっと面白い腹案を持っているに違いない。
現在、昭和館にゆかりの深いリリー・フランキーさんイラスト入りグッズなどが返礼品としてもらえる、昭和館支援のクラウドファンディングを4月30日まで実施中。
返礼品のデザインを確認する樋口さん
「新しい劇場では子供たちを呼んで映画館体験をしてもらいたい。そこから次の世代の平山秀幸、青山真治、タナダユキなどの映画監督、リリーさんはもちろん光石研、松尾スズキなど個性的な役者がたくさん育ってほしい」とずっとずっと未来に対しても目を輝かしている樋口さんなのでした。