「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
2022.9.21
パゾリーニ、ビスコンティに教えを受け 〝神様〟フェリーニ監督とサーカス通い 吉崎道代②:女たちとスクリーン
イタリアの名門映画学校に入学しながら学生運動に巻き込まれ、フェリーニ監督に育毛剤を贈って知己を得る。「嵐を呼ぶ女 アカデミー賞を獲った日本人女性映画プロデューサー、愛と闘いの記録」(キネマ旬報社)を出版した吉崎道代さんの、波乱の映画人生は続く。
「嵐を呼ぶ女 アカデミー賞を獲った日本人女性映画プロデューサー、愛と闘いの記録」(キネマ旬報社刊)
監督よりもプロデューサー向きだった
--19歳でローマのイタリア国立映画実験センターに入学したが、センターではどんな勉強を。
コースが分かれていて、本当は監督コースにいきたかった。映画といったら監督と思っていたし、いいシナリオを書いてビジョンを伝えたら、いい俳優は付いてくると思った。プロデューサーが何なのかあまり知らなかったが、後から考えたら向いていると思うようになった。
--向いていると考えたのは。
やっぱり、「天ぷら」で鍛えたネゴシエーション。いい原作を買い取って、シナリオライターに書かせる。その前に私は必ずトリートメント(ストーリーラインの流れを論理的に書いたもの)を作って、ライターにこういう意図だからという話をするスタイルを続けている。プロデューサーはネットワークとネゴシエーションが大事だが、お金を集めるのも口が回らないとね。
大事なのは「ナイフとフォーク」 文化が入り口に
――言葉はもちろんだが、その国の習性や考え方、国民性を把握していないと難しいでしょうね。
言葉よりも文化を知っていないと。私たちが住んでいるロンドンでは、例えば息子が小学生の頃、外国から来た子が入ってくると、先生がまず聞くのは言葉じゃない。必ず「あなたの家ではちゃんとナイフとフォークを使ってしつけていますか」。言葉なんか1カ月もたったら自然とだいたい話せるようになる。ほかの子どもたちとうまくやっていくには、ランチの時に手づかみで食べるのではなく、その場所のルール(イギリスではナイフとフォーク)に従うことが大事。それは当然だと思う。
--ナイフとフォークが入り口?
そうです。そうしたしつけをきちんとしていたら、少なくともいじめには遭わない。その国の文化を知らないのはダメ。行った国がキリスト教の文化か、イスラム教の文化か、仏教の文化か。間違うとテロリストにもなってしまうことだってある。
ビットリオ・デ・シーカ監督(右)と吉崎道代さん=吉崎さん提供
政治の季節にイキがる学生たちの中で
--イタリアの学校でどのくらい勉強したか。
2年の予定だったが、最終的には1年と2、3カ月しかいなかった。1年と少したったころストライキが起こった。
――世界的にも学生運動が激しかった頃。
そうです。発端は撮影所のチネチッタで、学校はその中にあった。チネチッタはベニート・ムソリーニが、国威発揚の映画作りのために監督やプロデューサーを育てるという思想で作ったから、学生たちは先生はみんな右翼だと思っていた。一方、学生たちや映画界の人たちはみんなと言っていいほど左翼。イタリアは、特に右翼と左翼がはっきり分かれていた。
学生がストライキをして、最初に来てくれたのがピエル・パオロ・パゾリーニ監督だった。壁に立てかけたはしごを上って教えに来てくれた。パゾリーニはコミュニストだから、学生たちは意気軒高になっちゃって。若いっていうのは(ある意味)バカだから。ルキノ・ビスコンティ監督もロベルト・ロッセリーニ監督も来てくれた。BBCもインタビューに来たし、学生たちはみんなイキがっていた。
ただ、私はストライキには抵抗感があった。学校は授業料を払わなくていいだけでなく、生活費もくれるしランチもただ。1カ月が過ぎると、生活費を絶たれた学生たちはくしの歯が欠けるように学校から、ストライキから去って行った。そして、学校はその後、10年にわたって閉鎖されてしまう。ストライキで何が得られたかといったら、ほとんど何も得られなかった。
年400本鑑賞 夕食はほとんど映画館で
--勉強する環境ではなかったか。
学生は映画を勉強に来ているはずなのにと、疑問を感じた。みんな映画好きではあるが、左翼とか活動家とかではなく、単なる田舎者。イタリア映画にはものすごく精通しているが、黒澤明もイングマール・ベルイマンもほとんど見ていない。私の方がずっと多くの国際的な作品を見ていた。この人たちがイタリア映画界で活躍するなら、私にもできるのではないかという希望が生まれた。
--1年数カ月で学んだことは。
ビスコンティ監督やパゾリーニ監督から講義を受けたことと、映画を見て分析することを学んだのが大きかった。映画の分析は、今に至るまで非常に役立っていると思う。映画を志すなら年に300本以上は見なさいと学校で言われたが、私は400本以上は見ていた。夕食はスパゲティを包んだりして、ほとんど映画館で食べていた。
日本ヘラルドで買い付けの仕事に
--その後、どうしようと考えたのか。
もちろん、イタリアの映画界で働こうと思っていた。しかし学生の時は感じなかった、日本人への差別に気付いた。経済が発達しても、黄色人種に対する差別はあった。当時のイタリアは田舎だったから。
そんな時、「父が重病だから帰れ」という連絡があり、お金もなくなったのでいったん日本に帰った。そして、日本ヘラルド映画に入った。イタリアの一番いい映画学校を出ているのだから、と気負っていた。最初はほかの仕事をしていたが、買い付けの仕事を始めると多くのことを学んだ。観客が何を求めているか。買い付けは今でも私の糧になっている。
--プロデューサーとしても必要なことだった。
買い付けは、観客の好みを理解することが必要だが、映画を作るプロデューサーにも大切なことで、とても役に立っている。
--著書には、名だたる監督や俳優たちとの交遊録やエピソードがあふれているが、パゾリーニとともに、フェデリコ・フェリーニ監督への信頼と絆の深さが際立っている。
私にとってマーロン・ブランドの後は、フェリーニ監督が神様です。今にいたるまで、フェリーニ教の信者になっちゃった。奥さんのジュリエッタ・マシーナが第1の信者なら、私は第9ぐらいの信者と思っている。
最初は、フェリーニ監督が日本の「加美及素」(育毛剤)をつけていると聞いたことがきっかけだった。彼のジョークだったのだけれど。年を取ってくると、撮影中も午後3時くらいになると疲れてきて、休憩に入りたい。でも、そんなことをすると監督としてもうダメだと言われる恐れがあったので、「加美及素タイム」と言った。加美及素をすり込むための休みということにして。それで、日本から「加美及素」を大量に送ってもらい、それを持って会いにいった。「加美及素」と言った途端に喜んでくれて、その後親しくなった。
フェデリコ・フェリーニ監督(右)とサーカスに来た吉崎道代さん=吉崎さん提供
アバウト同士で気が合った
――人をひきつけることを見つけて実行する。プロデューサーとしての強みの一つ。
一緒に仕事をしたこともないし、オプションは何もない。「加美及素」が一番という発想でした。なんといっても日本製だから。それから家族同様にかわいがってくれて。日本人でもイギリス人でも、一緒に何回もサーカスに行ったのは私ぐらいだろう。私もサーカスが大好きだったから、連れて行ってもらって、夕食もご一緒させていただいた。
――フェリーニ監督の作品にもサーカス的なものはよく登場していた。
そうですね。でも、私にとって「甘い生活」ほどすばらしい映画はない。イタリアのことを描いているが、人間や男女の関わりを踏まえた上で、戦後の世界、特にイタリアの状況を大きなスケールで描いた傑作だった。
ビスコンティもすごい監督だが、フェリーニ監督のようにはめを外したところがない。「甘い生活」は、いい監督が作ったすごくいい映画。フェリーニ監督はスキがたくさんあるかもしれないが、とてつもなくスケールが大きい。ただ、アバウト。私もアバウトだから、その辺でも合ったのかもしれない。
■吉崎道代(よしざき・みちよ) 映画プロデューサー。大分県出身。高校卒業後、ローマの映画学校に留学。1975年に日本ヘラルド映画に入社。欧州映画の買い付け業務に携わり「ニュー・シネマ・パラダイス」(88年)などを配給。大ヒットした「ラストコンサート」(76年)のプロデューサーも務める。「裸のランチ」(91年)、米アカデミー賞を受賞した「ハワーズ・エンド」(92年)、「クライング・ゲーム」(同)のプロデューサーを務めた。92年に映画製作会社NDFジャパン、95年英国にNDFインターナショナルを設立、「バスキア」(96年)、「タイタス」(99年)、「チャイニーズ・ボックス」(97年)などのヒット作を製作した。現役のプロデューサーとして活躍中。