毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。
2021.9.16
アイダよ、何処へ? 虐殺の渦中、母の闘い
母は強し。洋の東西を問わず、わが子を守るためならなりふり構わず猛進する。そんな母親であるアイダの目を通して、1995年7月、ボスニア・スレブレニツァで7000人のボシュニャク人がセルビア人勢力に虐殺された事件を描く。人類史に刻まれた犯罪を、極小の視点から捉えた衝撃作だ。
アイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)はスレブレニツァの国連施設で通訳として働く。セルビア人勢力が侵攻し、国連保護軍は劣勢で物資も欠乏していた。避難民で施設内はすし詰めとなり、なお数千人が押し寄せている。保護軍幹部は空約束を連発するが、アイダは保護軍が孤立して機能喪失した内情を察知し、家族の安全確保に奔走する。セルビアのムラディッチ将軍が交渉役の住民代表を要求すると、強引に夫を選ばせ、息子と共に施設内に導き入れた。
カメラはアイダに張り付き、観客は彼女と混乱の中を走り回る。救いを求める群衆を見下ろし、動揺する保護軍幹部の姿も目にする。
刻々と迫るセルビア人勢力と拍車がかかる施設内の混乱を対比させ、画面の緊迫感を高めていく。アイダが頼れるのは自分だけ、家族の命を守るのに必死だ。保護軍に雇われているというわずかな特権を最大限に利用し、情に訴え書類の偽造もいとわない。アイダと一体化した観客は、ヒリヒリとした彼女の焦燥といら立ちを共有することになる。やがて施設に侵入したセルビア人たちが、住民を強引に連れ去っていく。死に物狂いのアイダの奔走は、強大な暴力の前になすすべもない。
サラエボ生まれのヤスミラ・ジュバニッチ監督は、自身が体験した内戦を「サラエボの花」など、市井の生活者の目から映画化してきた。今作も歴史の悲劇をアイダの絶望と無力感に集約させ、観客に我が事として体感させる。厳しく、切実な一作。1時間41分。東京・Bunkamuraル・シネマ、大阪・シネ・リーブル梅田ほか。(勝)
ここに注目
国連施設内の広間が避難民でごった返し、敷地外までもが無数の市民で埋め尽くされた光景など、あらゆる描写が生々しい。直接的な暴力シーンは一切ないのに、極限のジレンマにさいなまれていくアイダの奔走を通して、ジェノサイドの恐怖を表現したジュバニッチ監督の演出力に圧倒される。スレブレニツァの虐殺に至る経緯は省略されているが、物語の視点や時間軸を限定することで映画の密度を高めた。7000人以上の人命を奪った蛮行が、こんなにも短時間で、なすすべもなく引き起こされたことに慄然(りつぜん)とせずにいられない。(諭)
技あり
ジュバニッチ監督は「アイダの悲劇と彼女の感情が物語の中心」と言い、撮影入り前に俳優をロケ地に集め、台本通りにリハーサルし、熱量、感情レベル、リズムなどを覚えてもらった。同時に、クリスティーン・A・マイヤー撮影監督とカットごとの撮り方を検討。カメラはアイダを追い続け、家族を捜して群衆の中に入ればカメラも入る。また虐殺現場の建物の外では、乗り捨てられたトラックの間から、赤い子供用自転車を乗り回す女の子が見える。内での惨劇と外の平和な風景の対比が効果的。力のこもった画(え)で緊張感を持続させた。(渡)