「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
2022.7.27
撮影現場がとにかく楽しくて 男性社会も気にならず 撮影監督・芦澤明子:女たちとスクリーン⑫
芦澤明子さんは、日本の撮影監督の第一人者。黒沢清、深田晃司、沖田修一ら日本映画界を代表する監督と組み、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章など数々の受賞・章歴がある。ロカルノ国際映画祭金豹(きんひょう)賞(最高賞)を受賞したインドネシア映画「復讐は私にまかせて」でも撮影を担当した。女性撮影監督の先駆けとして、映画への思いを熱く語ってもらった。
「復讐は私にまかせて」の撮影現場でカメラをのぞく芦澤明子さん(右)
恋人と見た「気狂いピエロ」にポエムを感じて
--映画の世界に入るきっかけは。
高校までは映画にあまり興味はなかったが、大学生の時にゴダールの「気狂いピエロ」を見て、映画ってこんなに自分に近いところにあるんだと感じ、面白いと思った。ストーリーの展開ではなくて、カットがどんどん変わって次の世界にいくことに。映画は詩(ポエム)に近いとも感じた。私も撮れるのではと勝手に思い、それまでカメラを回したことはなかったが8ミリを始めた。
実は、「気狂いピエロ」は当時付き合っていた人が映画狂だったので、私も知っている方が話題も広がって長続きすると思って、その人と見に行った。分からないことが多くてまた見たくなり、確か新宿のアートシアターに何度も足を運んで見ているうちに、好きになった。今の映画は説明が多いから分からないことはあまりないけど、分からない面白さに引っ張られた。
飛び込んだバイト先 まさかピンク映画とは
-―それで自主映画の世界に。
1969年とか70年で、大学には入ったがロックアウトされたりして、時間はたっぷりあった。何かやりたいことがあったわけでもなかった。そのころ、渋谷で個人映画会をしている、ものすごく才能のある人がいると言われ、上映会に足を運んだことがあった。それが森田芳光だった。森田さんは日芸(日本大学芸術学部)で、「映画」という作品が当時、特に有名だった。
自主映画のグループに入って自分でも作って、酷評されたりしたが、楽しかった。ただ、アルバイトもしなければならず、どうせなら映画関係の仕事をしたいと考え、「アルバイトニュース」を見ていたら、「渡辺プロで助監督募集」の求人を見つけた。大手芸能プロダクションの〝渡辺プロ〟も連想したし、まさかピンク映画の渡辺護監督のプロダクションとは思わなかった。事務所は渋谷区の大学のそばで、「渋谷はおかしい」と思ったものの働き始めた。
ところが、助監督とは名ばかりで何でもやらされた。同じ渋谷でも、大学には行かずに渡辺プロに通った。何本もピンク映画の製作にかかわった。おかげで1年留年した。
「復讐は私にまかせて」の一場面
演出部では失敗の連続。振り向くと……
――ピンク映画に抵抗はなかったか。
映画の現場を知りたいという一心だった。何かワクワクして面白かったが、親の方が心配していた。
――どんな仕事をしたか。
助監督の見習いで演出部だった。見習いといっても、ピンク映画はすぐに上に上がってしまうので、しばらくするとスケジュール調整をするようになった。そこで大失敗をおかした。ある日の撮影で、有名俳優をもう出番がないと思って帰してしまったのだ。こうした失敗が1度ならず2度。この職種は向いてないと思って振り向くと、カメラマンがかっこよく見えた。
――撮影の仕事に興味を感じたのは。
不思議だけど、かっこよさ。現場を知っている感じがして、撮影がいいと。演出部で失敗をしたこともあったし、演出系は言葉遣いにも気を使うし、人間関係も絡まっていく。撮影部は、何があってもカメラが自分を守ってくれるように見えた。機材のこととかをきちんとやっていれば、仕事として成り立つのではないかと思った。だから、決して映画が好きとか、撮影が好きとかではなく、たいした理由もなく始めた。そのころのピンク映画って、機材もシンプルで覚えることもそんなになかった。
最初に「(撮影の)現場に来ていいよ」「撮影部に来ていいよ」と言ってくれたのは、大ベテランの伊東英男さん。高間賢治さんも「おいで」と言ってくれて。高間さんは最初の撮影助手の上司。お二人とも若松孝二監督の作品を何本も撮られているが、この時代に最もお世話になった。伊東さんと高間さん、今では考えられないくらい豪勢な方の下に付くことができた。
セクハラ、パワハラあったかも、でも
――大学を出て、そのまま就職せずにこの世界に。
そうですね。いわゆる会社から給料をもらったことがない、バイト以外は。生活はギリギリだったけど家が東京都内だったから。
――撮影の世界で生きていこうと。
はっきりとは考えていなかった。ただ、目の前の日々がとにかく楽しかった。「そのころセクハラやパワハラはありませんでしたか」という質問を受けるけど、「あったかもしれないが気づかなかった。楽しかったことの方が多くて」と答えている。
――そのころの現場は、女性はスクリプターくらいしかいなかったのでは。
そうですね、あとはヘアメークさんぐらいで、ほぼいなかったかもしれない。男ばかりの世界だったが、面白過ぎちゃって。いたずらとかされていたかもしれない。当時のスタッフから今になって「風呂場をのぞいた」なんて言われたこともある。
誰かが必ず見ていてくれる
――どんなところがそんなに楽しかったのか。
自分が撮影部で汗を流したことが、そのまま映像になっていく。撮影部ならではの喜びだと思うが、ピントが自分が作ったようになっていく。スクリーンと自分が1対1で対峙(たいじ)できるような感覚。自分のミスもそのまま表れる。ギャンブルではないけど、思い切りの良さを求められるのも気持ちがいい。怒られたり、ほめられたりする関係も楽しかった。
――怒られてもめげない。
めげないです。気晴らしというか、違うことをする。家の中を掃除するとかいろいろ。
-―ピンク映画から学んだことは。
伊東さんはエリートで、しかもいろいろな体験をしている。パネルを撮るときでも、細かいワンカットを撮るときでも、「必ず誰かが見ているから、全力を尽くしなさい」と言われた。予算のあるなしには関係ない。そういうことを教えてくれた。
芦澤明子(あしざわ・あきこ) 撮影監督。1951年生まれ、東京都出身。青山学院大学時代にジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」を見て映画に強い関心を持ち、自主製作映画、ピンク映画やテレビコマーシャルの撮影に携わり、商業映画の世界に。「きみの友だち」「LOFT ロフト」「トウキョウソナタ」「わが母の記」「岸辺の旅」「散歩する侵略者」「海を駆ける」「子供はわかってあげない」など多数。2018年に紫綬褒章を受章。