第96回アカデミー賞授賞式は、3月10日。コロナ禍の影響に加え大規模ストライキにも直撃されながら、2023年は多彩な話題作、意外な問題作が賞レースを賑わせている。さて、オスカー像は誰の手に――。
2024.3.09
ユダヤ人虐殺の隣にある幸福な日常 「関心領域」が現代に問い掛けること
アカデミー賞作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞、音響賞の5部門にノミネート。昨年5月のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したほか、英国アカデミー賞英国作品、非英語作品賞、ロサンゼルス映画批評家協会作品賞、トロント映画批評家協会作品賞など各国で高い評価を受けている。アウシュビッツ強制収容所と壁を隔てた邸宅に住む収容所所長ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス一家の平和な日常生活を描いた。イギリスの作家マーティン・エイミスの小説が原作で「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のジョナサン・グレイザーが脚本、監督した。
収容所の隣に住む所長一家の穏やかな日常
映画は、真っ黒な画面にキーキーという金属的な不協和音が鳴り響いて始まる。居心地の悪い、人を不安にさせるような音といっていいだろう。いったい何が始まるのかと思っていると画面は一転。空は青く、緑豊かな美しい湖畔にピクニックにでも来たような家族を映し出す。色調もいたって明るく、子供たちの声になごやかな雰囲気が感じられる。
その後もヘス一家の日常を淡々と描写していく。家のリビングでの会話や庭の手入れ、パーティー、ヘスの出張や引っ越し。どこにでもある穏やかで裕福な家庭である。ただ、一人一人のズームアップはほとんどない。引きの映像ばかりで、俳優の細かな表情や演技を見せようとはしない。芝居やセリフからエモーショナルな部分がほとんど感じられないのである。
ヘス役にはミヒャエル・ハネケ監督の「白いリボン」(2009年)、「ヒトラー暗殺、13分の誤算」(15年、オリバー・ヒルシュビーゲル監督)のクリスティアン・フリーデル、その妻へートビヒ役を「ありがとう、トニ・エルドマン」(16年、マーレン・アデ監督)、現在公開中「落下の解剖学」(23年、ジュスティーヌ・トリエ監督)でアカデミー賞主演女優賞にもノミネートされている注目のドイツ人女優、ザンドラ・ヒュラー。著名俳優を並べて、アップを撮らない。
遠くの煙突と煙、遠くに響く銃声
一家の隣にある収容所の存在は、そこはかとなく示されるだけだ。遠景として見える煙突とそこから吐き出される黒い煙、時折遠くから響く銃声や、不気味な叫び声。おしゃべりの中に出てくる祖母のユダヤ人のお手伝い。終盤に映像のトーンが一転し、アウシュビッツの博物館の展示やそこで働く人の映像に切り替わる。最後はまたしても不快に感じられる音で終わる。
収容所の周囲40平方キロメートル
撮影は最大10台の固定カメラを使い、セット内の異なる部屋でのシーンを同時に撮るという独特の手法を用い、俳優はセットを自由に動くことができたという。また、作品全編において撮影用の照明を使っておらず、自然光と通常の室内の照明のみで撮っている。そのため、夜の野外での撮影にはサーモグラフィーカメラを使用した。
タイトルは、ポーランドのオシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所を取り囲む40平方キロメートルを、ナチス親衛隊が「関心領域(The Zone of Interest)」と表現したことからつけられたという。ちなみに、この作品のポスターやチラシのデザインの下部分には庭園で楽しむ人々が描かれ、半分以上を占める上部は青空でも風景でもなくただ真っ黒に塗りつぶされていて、その異様さを十分に伝えている。
見たいものだけを見る罪悪
収容所内部で行われていたことと、壁一つ隔てた向こうの幸福な日常。映画は片方を徹底的に見せ、もう片方をほとんど見せない。それゆえ観客は、映画が意図的に見せないものを、かえって想像し、直視する。そして自分たちの〝関心領域〟だけにとどまるヘス一家の姿に、悪を許容し共犯関係になることがいかに簡単かを体感する。強烈なメッセージに、思考の深淵をさまようことになる。映画が示すのも、人類史で最悪と言われる行為の一断面なのだ。
これほど恐怖をかきたてる作品もまれだろう。ただ、80年前の物語とは言っていられない。見たいものだけを見る傾向は、SNSが浸透する現在ではなおさら顕著だ。誰もが否定する歴史の闇を衝撃的な手法で見せることで、現代への強烈な警告にもなっている。
★注:副総統を務めたルドルフ・バルター・リヒャルト・ヘスと収容所所長のルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは別人物です。