「こちらあみ子」でデビューした大沢一菜(かな)は、まさに〝小さな大女優〟。撮影時10歳ながら強烈な存在感で、風変わりなあみ子に力と魅力を与えている。森井勇佑監督が「奇跡」という逸材だ。そして同時に、これがデビュー作となった森井監督の演出力も見逃せないのである。
あみ子と自分が同化した
原作は今村夏子の小説。一読してほれ込んだ森井監督は「映画にしたいという思いは衝動に近かった。あみ子と自分が同化した感じ」。
「ぼくもあみ子だと。世界との接し方みたいなものが、あみ子と近いのかもしれない。本流とされているものから外れているという感覚。でもあみ子自身は、ぼくと違って引け目を感じていない。ありのままで生きてる」
小学5年生のあみ子は、両親と兄と暮らす。もうすぐ生まれる妹か弟を待ちわび、お気に入りの同級生のり君を追いかける。ただちょっと風変わり。純度100%の思いを、真っすぐにぶつけるから、摩擦や衝突を引き起こす。のり君はあみ子と口をきかないし、母親も持て余し気味。それでも臆することがない。そんなあみ子の独自の世界を、あみ子の視点から描き出す。
純粋すぎて居場所がない
「あみ子は元気で素直で、優しい。そしてウソをつかない。それなのに、居場所がない。そういう子はいると思うし、自分でも実感する。こういう社会だから、自然とそうなるのかな。でも、かわいそうではない。どっちかっていうと生きにくいかもしれないけど、それはぼくも同じ」。森井監督もあみ子が「大好き」。きっと生きていける。「あみ子も『大丈夫じゃ』って言ってますからね」
筋立てはほぼ原作通りだが、映画化のカギはあみ子である。森井監督は、オーディションに現れた大沢を、迷うことなく決めたという。「奇跡ですね。この子がいなかったらどうなったか」
大沢は撮影当時10歳、演技経験ゼロである。しかし元々、演技経験のないことを条件として想定していた。「演技の経験があったり頭が働いたりすると、あみ子はどういう子か、意識して芝居してしまう。役になりきるより、ただセリフを言ってもらうことが重要でした。うまいと困る、ヘタであるほどよかった」。大沢には「芝居しないようにしよう」と伝え、「あとは元気出せ、声出せ」と言い続けたそうだ。
演技未経験の子役を自由にする
一方で、大沢をあみ子にするための環境作りには気を配った。撮影現場に母親を同行させず、何をしても怒らないとスタッフ間で取り決め、大沢が眠くなる午後は「お昼寝タイム」。ありのままでいられるよう配慮した。「母親が見ていると意識してしまうし、気持ちの切り替えを強いたくなかった」。一方で、ドキュメンタリーではないから野放しにはせず「映画としてまとめるために、かなり細かく動きは指示した」。NGに「なんでー」と逃げる大沢を、連れ戻してリテークである。
大沢の演技センスは天性だった。「想像を超えてくることが、たくさんあった」。映画の終盤、中学生になったあみ子が、転校間際に幼なじみと会話する場面。「あんな表情と声の出し方になるとは。『やってみて』と言った芝居で、こんなになるんだと、びっくりしました」
すごいのができちゃった
あみ子の背景に映る自然、あみ子の心象風景は映画ならではの表現だ。「映画化に際しての工夫の一つは、人間以外の存在を描いたこと。虫やカエル、蛇といった他の生き物、木のざわめき。世界にはいろんなものがある」。虫と大沢と、存在の美しさを対等に並べる。それにおばけ。正体不明の音が聞こえるようになったあみ子の前に、おばけの集団が現れる。ファンタジー的要素を取り入れた。
カメラはあみ子を追いしばしば大写しにするが、ほどよい距離を置く。森井監督の「人と接する時の、生理としての距離感」という。あみ子は摩擦も衝突もものともせず、最後まで変わらない。成長や葛藤とは無縁だ。「誰かと誰かが向き合うことへの感動を、映画に求めていないのかもしれない」。それより「共鳴」だという。「直接声をかけるより、遠くで〝共鳴〟する感覚」。だからこそあみ子は無敵なのだ。
配役も含め、思い通りに近かった。「ぼくの中では、すごいのができちゃったと思ってます。でも、みんなのおかげ。一菜が現場で生き生きできたのは、雰囲気を作ってくれたから。1人じゃできなかった」
7月8日公開