「ベイビー・ブローカー」© 2022 ZIP CINEMA & CJ ENM Co., Ltd., ALL RIGHTS RESERVED

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2022.7.26

是枝映画の「入浴」と「洗濯」 「ベイビー・ブローカー」が洗い流すもの:よくばり映画鑑賞術

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

 「ベイビー・ブローカー」は「洗濯映画だ!」。
これは私の言葉ではなく、「カメラを止めるな!」(2017年)の上田慎一郎監督がTwitterに投稿した感想の一部である。洞見に富んだ的確な指摘だと思う。

ツイッター 上田慎一郎「ベイビー・ブローカー」洗濯の映画だった。


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「心のシミ」と「偏見」を洗い落とす旅

「洗濯」は「ベイビー・ブローカー」にとって重要なモチーフである。主人公のサンヒョン(ソン・ガンホ)がクリーニング屋を営んでいるのは偶然ではない。一行はクリーニング屋のボロボロのワゴン車に乗って赤ちゃんを売るための旅に出る。上田が当該ツイートで述べているように、それは登場人物たちがそれぞれの「心のシミ」や「偏見」を洗い落とす旅なのである。
 
サンヒョンとともに赤ちゃんの販売に手を染めるドンス(カン・ドンウォン)は、児童養護施設出身という過去を持つ。彼は赤ちゃんのときに「捨てられた」人物なのである。一方、映画の冒頭で赤ちゃんを「捨てる」ソヨン(イ・ジウン)は、翌日、思い直して赤ちゃんポストを運営する教会に戻ってくる。赤ちゃんの父親を殺すという拭いがたい罪を犯した彼女は、赤ちゃんの養父母探しの旅に同行することになる。
 
旅に出る直前に、サンヒョンが金を借りているヤクザが血で汚れたシャツをクリーニング店に持ち込む。落ちるかどうかわからないその汚れは、もちろん彼らの「心のシミ」のメタファーとなっている。こうした細部がこの映画を豊かに彩っている。ほかにも、たとえば一行が乗るポンコツのワゴン車は、ハッチバックドアがうまく閉まらない。だが、サンヒョンは「コツがあるんだ」と言ってそのクセのあるワゴン車とうまく付き合っている。誰しも欠陥のひとつやふたつは抱えているものだが、それとうまく折り合いをつけて生きていけるかどうかはちょっとした「コツ」次第なのかもしれない。
 


着替えもままならず、ブローカーじみていく刑事

赤ちゃん販売の現場を押さえようとして一行を追跡する刑事のアン・スジン(ペ・ドゥナ)は「偏見」を抱える人物の代表格である。赤ちゃんをポストの前に置いていくソヨンを見て「捨てるなら産むなよ」と吐き捨てる彼女には、子どもを手放さざるをえない母親の心境がまったく理解できない。監督の是枝裕和は「父親は非難せず、なぜか母親だけ非難する。スジンにはそんな世間一般の「偏見」を代表してもらった」と述べている(「キネマ旬報」2022年7月上旬号、20ページ)。しかし、彼女は一行を追う過程で、彼らの心温まるとしか言いようがないやりとりを盗聴したり、ソヨンの激情に触れたりしながら、徐々に「母親」への理解を深めていく。
 
映画の序盤には、張り込みをしているスジンのもとに彼女の夫が着替えを届けるシーンがあるが、これも「洗濯」のモチーフに連なるエピソードのひとつである。夫は「白いのは今クリーニングに出しているから、かわりに黒の厚手のを持ってきた」と言ってスジンに着替えを渡す。白と黒を対比させるようなこのセリフは意味深長だ。
 
後輩のイ刑事(イ・ジュヨン)がスジンに向かって「早くシャワーを浴びて着替えたいです」と言うのも「洗濯」に関連する。赤ちゃんの買い手がなかなか見つからないなか、いかにも家族らしい日々を過ごすワゴン車の一行に対して、入浴や着替えもままならず、早く赤ちゃんを売らせようとする刑事たちの方がよほどブローカーじみている(劇中にはそのようなセリフもある)。


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追われる者が「家族」になる美しい洗車シーン

追われる一行と、追う刑事たちの立場が反転する様子も洗濯や着替えを通して描かれる。一行がコインランドリーに立ち寄った際に全自動洗濯機の操作に手こずるサンヒョンの姿は、単なるユーモア要素になっているだけでなく、彼らが人間らしい衣食住を確保していることを示唆する。また、取れかかっていたソヨンの服のボタンをサンヒョンがつけ直すシーンも印象的である。それに対して、ボタンが取れかかっているから服を持ってきてくれないかと夫に電話をかけるスジンの希望はかなわない。この対比は明らかに意図的に配置されたものである。
 
映画には、ワゴン車の一行が「家族」になる象徴的なシーンがある。それは上田も触れている洗車のシーンである。途中で立ち寄った児童養護施設から抜け出し、一行の旅に参加することになる少年ヘジン(イム・スンス)は、洗車中にワゴン車の窓を開ける。当然、皆はびしょぬれになってしまう。本来はトラブルでしかないこの出来事は、一行にとってちょっとしたアトラクションに参加したかのような楽しいひとときとなる。そして彼らは、ワゴン車にあったクリーニング済みの服に着替える口実を得る。「古い服を脱ぎ去って新しい服に着替える」わけである。もちろん、多分に比喩的な意味をあわせ持っている。映画を見た多くの人の印象に残るであろう美しいシーンだ。
 

「ベイビー・ブローカー」© 2022 ZIP CINEMA & CJ ENM Co., Ltd., ALL RIGHTS RESERVED

過去作とをつなぐ「洗濯」のモチーフ

じっさい、洗車のシーンには多くの論者が注目している。映画ライターの西森路代は映画の公式パンフレットに寄せた文章のなかで「ワゴンの洗車でヘジンがウィンドウを開けてびしょぬれになってしまうシーンを見て、彼らは“家族”になったのだと思った」と述べている。
 
また、映画史研究者・批評家の渡邉大輔も洗車のシーンを取り上げ「我が子を捨てたソヨンの身体が帯びている『罪』が浄化されうるかもしれないという予感の符牒(ふちょう)」であると同時に「過去の是枝作品の多くに登場するあの数々の『入浴』シーンに相当するだろう」と指摘する(「キネマ旬報」2022年7月上旬号、24ページ)。
 
手前みそで恐縮だが、渡邉は拙著「仕事と人生に効く 教養としての映画」を引用しつつ、「風呂」が是枝作品において「特権的な舞台装置」であることを強調する。「洗濯」のモチーフは「風呂」のモチーフへと横滑りし、「ベイビー・ブローカー」と過去の是枝作品とをつなぐちょうつがいの役割を果たしているのである。
 

デビュー作「幻の光」の「赤ん坊の入浴」

「ベイビー・ブローカー」には、赤ちゃんをお風呂に入れようとするシーンがある(その場面そのものは描かれないが、画面にベビーバスが登場する)。赤ちゃんをお風呂に入れるシーンは是枝が初めて監督した長編映画「幻の光」(1995年)でも描かれていた。この映画では母親のゆみ子(江角マキコ)が赤ちゃんを入浴させるシーンがはっきり描かれている(この作品が映画史100年の節目の年に公開されたことを考えると、これはリュミエール兄弟の「赤ん坊の食事」ならぬ「赤ん坊の入浴」であると言いたくなる)【図1】。


【図1】
 
「幻の光」では、彼女が赤ちゃんの入浴を放棄するシーンもあわせて描かれる【図2】。夫の郁夫(浅野忠信)を奇妙な列車事故(自殺の可能性が仄<ほの>めかされる)で失った彼女は、ショックのあまり赤ちゃんの世話ができなくなるのである。「入浴」のモチーフは彼女の再生を描く際に再び用いられる。民雄(内藤剛志)と再婚して新たな生活を始めたゆみ子は、郁夫の死にわだかまりを残しつつ、徐々に「喪の作業(グリーフワーク)」を進めていく。
 
映画の終盤には、民雄がゆみ子の連れ子(かつて彼女が入浴させられなくなった子である)と入浴するかたわら、民雄の連れ子である娘の髪をとかすシーンがある。是枝流の「血のつながりによらない家族」が立ち上がっていくさまを見事に表現した場面である。
 

【図2】
 

「万引き家族」のクリーニング店と母子の傷痕

思えば、「洗濯」と「入浴」は近作の「万引き家族」(2018年)でも奇妙な近接性を示していた。是枝自身、各種インタビューで「万引き家族」と「ベイビー・ブローカー」が双子のような作品であることをアピールしているが、それはモチーフのレベルにもあらわれているのである。
 
「万引き家族」の信代(安藤サクラ)はクリーニング店(!)工場のパート従業員であり、彼女の左腕にはアイロンのやけど痕がある。信代の夫、治(リリー・フランキー)は、児童虐待を受けているとおぼしき少女、りん(佐々木みゆ)を連れ帰ってくる。劇中には信代がりんと一緒にお風呂に入るシーンがある。そこで、りんの右腕にも同じような傷痕がついていることが明らかとなる。
 
2人はお互いの傷痕を見せ合い、信代は「同じだ」とつぶやく【図3】。信代の傷痕を優しくなでるりんに対して信代は「大丈夫だよ。もう治ったよ」と言うが、りんははっきりと首を横に振る。単に見かけ上の傷が治ったかどうかでなく、彼女たちが心に抱えている傷のことを仄めかしているのである。


【図3】
 
■公園の水を使う「誰も知らない」の子どもたち
実は是枝の代表作のひとつ「誰も知らない」(04年)にも「洗濯」と「入浴」が近接した形で登場する。母親(YOU)が出ていってからしばらくは、育児放棄された子どもたちはそれまでと変わらない生活を送っており、兄弟で仲良く「入浴」するシーンも描かれる。しかし、やがてアパートの電気やガス、水道が止められてしまうと、子どもたちは公園の水を使って「洗濯」をするようになる【図4】。


【図4】
 
飲み水にすら事欠くようになり、流す水がないので自宅で排せつすることすらままならなくなった彼らが満足に入浴できるはずもない。その臭いゆえに友人たちからも敬遠されるようになり、兄弟姉妹間でもいさかいが多発するようになる。水を失って人間らしい生活が送れなくなるさまを「入浴」や「洗濯」を通してリアルに描き出しているのである。
 

「DISTANCE」の水との距離感

人間が生きていくためには綺麗(きれい)な水が必要である。その点で、水道水に毒物を混入させるテロを起こすカルト教団の話を扱った「DISTANCE」(01年)が連想される。映画は主として教団によって殺された実行犯たちの遺族(加害者遺族)のその後を描いている。
 
この作品では、登場人物と水との距離感が繊細に描き分けられており、川や湖、プールといった水の主題形が形成されていく。以前書いたことのある話なので、ここでこれ以上深入りするのはやめておくが、ソン・ガンホが「ベイビー・ブローカー」について「透き通った綺麗な水が溜(た)まっている深い井戸のような、是枝監督ならではの世界」と言っていることは紹介しておきたい(「キネマ旬報」2022年7月上旬号、16ページ)。是枝作品の核心をついた鋭い洞察だと思う。
 

過酷な社会を象徴する「雨」

人間らしい生活につながる水と、そうでない水があるとして、「ベイビー・ブローカー」では後者を「雨」によって表現していた。ソヨンが赤ちゃんを捨てる冒頭シーンでは雨が降っている。その後、ワゴン車の旅先でも何度も雨が降っていた。脚本家の安達奈緒子はパンフレットに「雨」に着目した論考を寄せている。
 
ソヨンが子どもの頃に傘を盗んだエピソードに触れ、雨のなか、刑事のもとに赴こうとするソヨンとドンスの間で傘をめぐる会話が交わされていたことに注意を促す。安達は「雨から身を守る傘は、いわば過酷な社会から自分を守ってくれるものの象徴、自分は守られるべき価値のあるものと実感できる道具なのかもしれません」と述べ、そのニュアンスを丁寧にすくい上げている。
 

疑似家族の距離示す「海水浴」

さて、話が前後してしまったが、「万引き家族」と「ベイビー・ブローカー」では、「洗濯」「入浴」のモチーフの亜種として「海水浴」が描かれる。父、治と息子、祥太(城桧吏)が海水につかりながら男同士の性的な話を通して交流を図ったり【図5】、家族が同時に海水につかってはしゃいだりする様子【図6】は、擬似家族のつながりを強化してきた是枝映画の「入浴」に連なるものである。



【図5】
 

【図6】
 
「ベイビー・ブローカー」の終盤にも海水浴のシーンがある。逮捕されたソヨンやドンスに代わって赤ちゃんを引き取ったスジン刑事は、成長した子どもと夫の3人で海水浴に訪れる。スジンと夫は子どもを抱きかかえて海水につかるが、ここで個人的に注目したのは、子どもの足が水面に触れるか触れないか程度に描写されている点である。細かいようだが、はっきりと海水を共有しなかったことは、子どものよりよい将来を模索するところで終わるこの映画の結末と呼応しているように思われた。
 
唐突だが、テレビアニメシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」(庵野秀明監督、1995〜96年)の第弐話「見知らぬ、天井」には「風呂は命の洗濯よ」という名言が登場する。そして第拾八話のタイトルは「命の選択を」である。「洗濯」と「選択」という同音異義語がいずれも「命」と関係のある文脈で用いられている。もちろん、これ自体は「ベイビー・ブローカー」とは何の関わりもない話だ。だが、図らずも同作の内容を総括しているようで、鑑賞中にふと思い出した。「洗濯映画」として論じてきた「ベイビー・ブローカー」は、「洗濯」され「選択」された「命」の物語だったのだと勝手に腑(ふ)に落ちた気でいる。それが残酷さと境を接した物語であることは言うまでもない。
 
図版クレジット
【図1、2】「幻の光」是枝裕和監督、1995年(DVD、バンダイビジュアル、2003年)
【図3、5、6】「万引き家族」是枝裕和監督、2018年(DVD、ポニーキャニオン、2019年)
【図4】「誰も知らない」是枝裕和監督、2004年(DVD、バンダイビジュアル、2005年)

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶応大法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。大学在学中に見た小津安二郎の映画に衝撃を受け、小津映画を研究するために大学院に進学する。現在はライフワークとして小津の研究を続けるかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。


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