かつて日本一の石炭積み出し港でにぎわった若松バンドー地区

かつて日本一の石炭積み出し港でにぎわった若松バンドー地区

2022.4.01

連載「原点~北九州と高倉健さん」下

2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。

ひとしねま

長谷川容子

2014年11月に83歳で亡くなった高倉健さんのメモリアルイベント「健さんに逢いたくて」(毎日新聞社などの実行委員会主催)が翌15年11月15日、北九州市小倉北区の北九州国際会議場で開かれました。このイベントの事前に西部本社版にて掲載された特集の3回目。高倉さんの原点ともいえる北九州での足跡を振り返ります。全国では蔓延防止等重点措置も解除されました。旅情も感じてもらいたいと再掲載しました。
*()内の年齢は掲載当時のもの

運命を変えた雑誌記事

米国に憧れた高倉健さんは1950年、貿易商を目指して東京の明治大商学部に入学した。だが、卒業を迎えた54年は不況と大卒者増が重なる就職難。就職口を探す一方、日銭を稼ぐために松竹大船撮影所(神奈川県鎌倉市)でエキストラのアルバイトをしていた。
「撮影所には小津安二郎、木下恵介、野村芳太郎ら名監督をはじめ、助監督には篠田正浩、大島渚らがいた。でも後の大スターの存在に誰も気付いていなかった」。映画プロデューサーの田中壽一さん(81)=北九州市門司区=は語る。
高倉さんの運命を変えたのは人気歌手、美空ひばりさんのマネジャーを募集する雑誌記事だった。面接会場で当時の東映専務、マキノ光雄さん(09~57年)と出会い、その場でスカウトされ、俳優になることを決めた。

ものになると思います

初対面の2人だったが、実は共通の知人がいた。同市若松区の海運会社「第一港運」の経営者、岡部宏輔さん(06~96年)。父が映画館を経営していた岡部さんの自宅には、映画会社の社員が多数出入りし、マキノさんも若いころに1年近く居候していた。
一方、高倉さんも東筑高(同市八幡西区)の頃、父が同社にスカウトされ働いていた縁で、夏休みに岡部さんのもとで船のデッキ掃除などのアルバイトをした。引き舟の乗員として四国へ向かった際は、船酔いで山口県の港で下ろされたエピソードもある。
岡部さんは俳優として高倉さんがやっていけるか心配したが、マキノさんはこう伝えたという。「目がきついようやけれども気に入りました。ものになると思います」。その通り、演技経験もない新人は56年にデビューを果たすと、スターの道を突き進んだ。

日本一の石炭積み出し港

かつて日本一の石炭積み出し港でにぎわった若松には、昭和30~40年代を中心に多くの映画ロケ隊が訪れた。高倉さんも主演の「日本俠客伝 花と龍」「網走番外地 悪への挑戦」などの撮影で凱旋(がいせん)している。岡部さんの娘婿で第一港運会長の秀年さん(74)は「コーヒー好きの義父は、酒を飲まない高倉さんをロケの合間に誘い、小倉駅前の喫茶店によく行っていた」と振り返る。
岡部さんには節目節目にお礼の手紙や菓子が届けられた。昭和45(70)年11月消印の手紙には「おかげさまで無事に帰宅し、元気で『花と竜』に取り組んでいます。 高倉健」としたためられてある。高倉さんの人柄が詰まった数多くの手紙は今、秀年さんが大切に引き継いでいる。(15年11月12日 西部本社版紙面より)

若松バンドー地区
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/wakamatsu/file_0015.html
JR若松駅より徒歩
若戸渡船若松渡場より徒歩

ライター
ひとしねま

長谷川容子

毎日新聞記者

カメラマン
宮脇祐介

宮脇祐介

みやわき・ゆうすけ 福岡県出身、ひとシネマ総合プロデューサー。映画「手紙」「毎日かあさん」(実写/アニメ)「横道世之介」など毎日新聞連載作品を映像化。「日本沈没」「チア★ダン」「関ケ原」「糸」など多くの映画製作委員会に参加。朗読劇「島守の塔」企画・演出。追悼特別展「高倉健」を企画・運営し全国10カ所で巡回。趣味は東京にある福岡のお店を食べ歩くこと。