吉崎道代さん=土橋正義撮影

吉崎道代さん=土橋正義撮影

2022.9.07

大学入試全敗、意志の強さだけが頼りの女性がオスカーを獲るまで プロデューサー吉崎道代:女たちとスクリーン⑮

「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
 

鈴木隆

鈴木隆

ロンドン在住の映画プロデューサー、吉崎道代さんは、オスカーを受賞した英国映画「クライング・ゲーム」(1992年)や「ハワーズ・エンド」(同)の製作、「ニュー・シネマ・パラダイス」(88年)ほかヒット作の日本配給のための買い付けなど、長年にわたり映画ビジネスに携ってきた。このほど映画人生を振り返った著書「嵐を呼ぶ女 アカデミー賞をとった日本人女性映画プロデューサー、愛と闘いの記録」(キネマ旬報社)を出版。盛夏の中、来日した吉崎さんに華麗なる映画遍歴を語ってもらった。


「嵐を呼ぶ女 アカデミー賞を獲った日本人女性映画プロデューサー、愛と闘いの記録」(キネマ旬報社刊)
 

マーロン・ブランドに恋した少女時代 この人と一夜を過ごせたら……

--日本人女性映画プロデューサーのパイオニア。10代で単身ローマに渡り、映画学校に入るところから人生が大きく動き出す。まずは、その原点となる時代から。大分県の国東半島の出身だが、どんな子どもだったか。
 
父は学校の校長先生をしていて、母は専業主婦。7人きょうだいの末っ子だった。4、5歳のころは、ストーリーが1枚ずつ動く紙芝居が大好きだった。今、映画を作るときも必ずストーリーボードを事務所に張るが、それと通じている。小学校に入って初めて映画を見たのが「類人猿ターザン」(32年)。小さな時から、自分で物語を作るのが好きだったので、私がターザンになって猿と一緒に木と木の間を渡っていく物語を、自分なりに作ったりもした。家には絵本などもなかったので、映画はショッキングでインパクトがあった。当時は、ターザン役のジョニー・ワイズミュラーがアイドル的存在で、今でも顔をはっきり覚えている。
 
--次に意識した映画は。
 
エリア・カザン監督の「欲望という名の電車」(52年)。マーロン・ブランドの最高傑作の一つ。子供心で分からないなりに、スタンリーを演じたブランドがミケランジェロの彫刻のようにハンサムですっかりまいってしまった。スタンリーがビビアン・リーの演じるブランチを怒鳴るシーンには、悲壮感があふれていた。あの人と一夜でも過ごせたら、死んでもいいくらいに思っていた。中3か高1ぐらいでしたね。同じカザン監督の「波止場」(54年)も好きだった。


チャールズ・チャプリンの自宅で、妻ウーナさん(中央)を囲んで。右から2番目が吉崎道代さん=吉崎さん提供 
 

頭も顔も良くない 一旗揚げるには海外で

--大人びていた。
 
姉とかの影響で、本はたくさん読んでいた。ヘンリー・ミラーなども中学の時に読んでいたし。そのせいか、物語を作るのも好きだったし、プロデューサーに向いていたんだと思う。
 
--ずっと大分に。
 
中2で東京に出てきた。大学入試も実は全部落ちてしまった。私の兄姉は東大、一橋大、東京教育大(現筑波大)、お茶の水女子大とみんな優秀で、早稲田大なんか軽いと思っていたらこの結果で、笑ってしまった。私は末っ子で、何の期待もされていなかったと思います。
 
頭もよくないし、顔もよくない。で、どうするか考えたら、一旗揚げるには海外に行くしかないと考えた。もう一つの理由は、マーロン・ブランド。物語には面白い要素が詰まっていて、子供心に海外で仕事をしたいという思いもあった。
 

ソフィア・ローレン(右)と吉崎道代さん=吉崎さん提供

天ぷら争奪戦で鍛えたネゴ力

--自立心も強かった。
 
仲のいい友だちは結構いたんだけど、子どものころからグループ活動とか全くダメで、誰かとつるんで何かをするのが好きではなかった。末っ子でわがままだったせいもあるが、自立心というより競争。
 
夕食の時の「天ぷら争奪戦」があった。イカの天ぷらとかが大好きで、母が一番下の私に「道代に二つ」と言うと姉たちがブーと膨れる。私は2階に逃げてストライキを始める。すると母が来て「天ぷら三つあげるから下りてきなさい」と。あるいは姉たちに「天ぷらをもう一つちょうだい。サラダをあげるから」のようなネゴシエーションを、そこで学んだ。
 
--プロデューサーの仕事にそれがはまったということ。
 
そうですね、ネゴシエーションの方法と大切さを知る、ベースになったと思う。日本人は周囲に気を使いすぎるし、中産階級の意識の塊。気を使ってばかりいたら何もできないし、中産階級からは何も生まれない。何かが生まれるのは貧乏人か金持ちからだと思っている。
 

結婚資金を留学費用に

--一貫して独身だ。
 
小学生の時から、結婚を考えたことは一度もない。少しませていたこともあって、「一人の人に操をささげなくちゃいけない」という考えはおかしいと思っていた。マーロン・ブランドに恋もしていたし。それと、結婚した姉たちが、母のところに来て「離婚したい」というと、母が「それだけはやめて」と涙を流す。
 
母がかわいそうと思ったし、結婚する必要もないと思っていたので、そのままです。今は子どもが一人、孫もいるが、男の人から生活費をもらったことなんて一度もない。
 
ただ、結婚資金をイタリアに行く資金として貸してくださいと両親にお願いした。高校が終わってからイタリアに行くまで、博覧会の仕事とか私ができる程度の英語を使ったアルバイトを少しして、資金の一部にした。
 
--意志を貫く強さを感じる。
 
私は意志の強さしか長所がありません。そこに集中してきた。
 

3歳児程度のイタリア語から

--なぜイタリアに映画の勉強に。
 
ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」(45年)やビットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」(48年)に感銘を受けたし、アンナ・マニャーニの出演作品も大好きだった。カザン監督の映画も好きだったし、アクターズ・スタジオの話にも興味があったが、カザンの前にイタリア映画にはまってしまっていた。本当ならブランドのいるアメリカだったんだろうが。
 
ローマにあるイタリア国立映画実験センターは、当時世界一の映画学校と言われていた。ひどい英語で100枚の論文を提出して入学許可が下りた。増村保造監督らに続いて日本人で3人目、女性では初めてだった。19歳の時だった。両親を1年間かけて説得して、近所のお寺にもお願いに足を運んだ。
 
--イタリア語や生活は。
 
イタリア語は3歳児程度、知っている単語もわずかしかないままローマに行った。英語とわずかのイタリア語、手足と天ぷらで鍛えたネゴシエーション力で、食べることから意思を伝えた。
 
■吉崎道代(よしざき・みちよ) 映画プロデューサー。大分県出身。高校卒業後、イタリア・ローマの映画学校に留学。1975年に日本ヘラルド映画社に入社。欧州映画の買い付け業務に携わり「ニュー・シネマ・パラダイス」などを配給。大ヒットした「ラストコンサート」(76年)のプロデューサーも務める。92年に映画製作会社NDFジャパンを設立。「裸のランチ」(91年)、米アカデミー賞を受賞した「ハワーズ・エンド」「クライング・ゲーム」のプロデューサーを務めた。95年には英国にNDFインターナショナルを設立、「バスキア」(96年)、「タイタス」(99年)、「チャイニーズ・ボックス」(97年)などのヒット作を製作した。現役のプロデューサーとして活躍中。

ライター
鈴木隆

鈴木隆

すずき・たかし 元毎日新聞記者。1957年神奈川県生まれ。書店勤務、雑誌記者、経済紙記者を経て毎日新聞入社。千葉支局、中部本社経済部などの後、学芸部で映画を担当。著書に俳優、原田美枝子さんの聞き書き「俳優 原田美枝子ー映画に生きて生かされて」。

カメラマン
土橋正義

土橋正義

玉川大学 芸術学部卒、俳優活動の後、動画、写真など映像事業に携わる。現職F.PARADEでは美容室の新規出店、マーケティングプロモーションを主軸に企画立案からイベント、映像制作、広告施策、コンサルティングも含め、ワンストップで担当している。

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