「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
2022.8.10
監督の思いの半歩先を提案したい 撮影監督・芦澤明子:女たちとスクリーン⑬
自主映画、ピンク映画、テレビCMを経て、カメラマンとして一線に立つ芦澤明子さん。どんなフィールドに立ってもその現場を楽しむというしなやかさと、強じんな意志の力があふれている。8月20日公開のインドネシア映画「復讐は私にまかせて」でも、撮影地の風土と人々に溶け込んで、映画作りを楽しんだ。芦澤さんへのインタビュー2回目は、撮影監督としての作品への姿勢を聞いた。
「復讐は私にまかせて」
大変な時に、大変な顔をしないのがプロ
--自主映画、ピンク映画の現場を経てCMに。
学生の時は自主映画をやって、ピンク映画の演出見習いは1年ぐらい、そのあと(ピンクの撮影を)1、2年やって、機材の豊富なテレビCMの仕事にシフトした。CM界全体が若かったので、女性に対する偏見は少なかったと思う。才能のある方がたくさんいて、そうした人たちとの出会いの中からCMカメラマンになった。CMで初めてカメラマンをした時のディレクターが川崎徹さんだった。
川崎さんは大きな規模の仕事が多くて緊張したが、人間を撮る時に「頭さえ切らないで撮っておいてくれれば僕がなんとかするから気楽にやりなさい」という温かい言葉をいただいた。川崎さん本人は忘れていると思うが私の環境は恵まれていた。
当時の川崎さんは忙しかったので時間との勝負だった。早く撮るノウハウも少し学んだ。今でも助かっている。川崎さんから学んだことの一つは、大変な仕事を大変な顔をしてやったらプロじゃない。何気なく大変なことをやれたらプロ、ということだ。
――川崎徹さんは糸井重里さんらと同様、一つの時代、カルチャーを作ったCMディレクターでした。
CMディレクターは無名性が当然だったが、初めて自分の名前を出したという意味でも先駆的な方でした。その時の出会いは続いていて、うれしい限り。何か波長が合うということかもしれません。CMの撮影は8年ぐらいやっていました。
「復讐は私にまかせて」
平山秀幸監督に誘われて
――そこから一般映画の世界に。
CMって特に才能がない限り、40歳を過ぎるとだんだん仕事が減ってくる。何かじっくり撮れるものをやりたいと思っていた。ちょうどその頃、平山秀幸監督の「ザ・中学教師」を見て、こういう作品を撮りたいと思った。今思うと恥ずかしいけど、平山監督に「こういう映画を撮りたい」と手紙を書いたんです。そのうちに、中編でしたが「J.MOVIE.WARS」シリーズのなかの1本「よい子と遊ぼう」に誘ってくれて、それが映画界に入るきっかけになりました。平山監督の人徳というか、人柄で引っ張っていただいたと思っています。
「復讐は私にまかせて」の撮影現場で。左端が芦澤明子さん
自分は寄り添い型
――自主、ピンク、CMとの違いは。
ある意味同じなのは、監督が何をやりたいか早く見抜くこと。監督の望みを察して、それが抽象的な観念だったとしても、監督が思っているより半歩ぐらい進んだものを具体的に提案できたらいいですね。今はないですが、CMの仕事が来たとしてもそうしたい。
違いは、取り囲んでいる人の人数。人数が多いと、私がちょっと右を向くと全体が一気に右を向く。人数が少なければ、後ろを向いても気にならない。カメラマンのちょっとした行動で人が動いてしまうので気をつけないといけない。
――撮影監督になって30年ほどだが、面白さは変化しているか。
昔の台本とかを見ると、今ならもう少しうまくできただろうという反省はある。技術の具体的なことだけではなくて、監督との寄り添い方とか。
――監督の意向を具現化するのがスタッフと言われるが。
そういうのが得意な人と、もう一つ、自分にはっきりしたイメージを持っていて、それを監督と話す人がいる。いわゆる天才肌の人に多いが、私は寄り添い型。監督が思っているよりもいいものができるように、少し肥大化というか、進化させる。監督はそこまで思っていなかったけど「でもいいね」と言われたいと思っている。
前と同じは避けたい
――黒沢清、瀬々敬久、沖田修一など、何本も撮っている監督は、そうした感覚がフィットする。
そうだと思う。黒沢監督は何本もお世話になっていて、その理由の一つは、何本も一緒にやっているという意識を限りなく持たないようにしているからでは。いつも初めてというつもりだ。私だけの思いで、黒沢監督に聞いたわけではないけど。
本当に初めて組むカメラマンに、「黒沢監督はこうした場合にこうですか」と聞かれることがあるが、先入観がないほうがよいので、あえて曖昧に答えている。いつもやっているから次も同じ、ではいけないという気持ちが、もしかしたら長続きしている理由かもしれない。
――作品が違えば同じ監督でも異なる。
全部アプローチを変えようと思っている。前と同じというのはできる限り避けたい。それでも似てしまうのだけれど。黒沢監督と組ませてもらったおよそ10本の作品には、それぞれの伸びしろがあった気がする。ぜひ、黒沢監督に尋ねてみてください。多分黒沢監督もそういう感覚だと思うが、いつも新しい何かを提示できるようにしたい。
「復讐は私にまかせて」の撮影現場でカメラをのぞく芦澤明子さん(右)
インドネシアでアクション映画に挑む
--最新作のインドネシア映画「復讐は私にまかせて」は東京国際映画祭がきっかけとか。
東京国際映画祭で日本を含むアジアの監督3人が、ひとつのテーマのもとにオムニバス映画を共同製作するプロジェクト「アジア三面鏡」があった。2018年の第2弾で、インドネシアのエドウィン監督が「第三の変数」という作品で参加した。そのプロジェクトのプロデューサーと私が以前仕事をしていて、声がかかった。この作品はある意味、精神的変態映画だったが、エドウィンとは気持ちが通じ合って、今回、「一緒にやろう」と声をかけてくれた。
インドネシアは好きだったので、いつかやりたいと思っていた。外国人に依頼するということは、旅ものとか食事に関する話に違いないと思って聞いてみたら、アクションと言われた。インドネシアのアクション映画は有名なのでびっくりした。「私にできるんでしょうか」と尋ねたら、大丈夫というので引き受けた。
--単身でインドネシアに。
新型コロナウイルス禍で一度中断、帰国を余儀なくされた。8~9割の撮影は、日本人クルーが5人。私とアシスタント2人、ライティングディレクターと助手だ。当初は日本人クルーをなるべく少なくしてタイの撮影スタッフも加わった編成だった。アジア的で面白いと思ったのだが、スケジュールなどの事情で、日本人のみとなった。中断後の残りの撮影は、私だけがインドネシアに向かうことに。さすがに緊張した。
--撮影方法など違いも多かったのでは。
違いを楽しむというか、違うことに驚かないで、向こうのやり方に私たちが入った。例えば、照明にしてもあまり作りすぎてしまうと日本の光になってしまう。日ざしが強いので、色を生かす照明にしようと考えた。インドネシアの暑く湿気のある感覚、そこは大切にしようと思ったし、日本に合わせるのは良くない。そういうスタッフには最初から声もかけなかった。「インドネシアという場所を借りて撮った日本映画」じゃつまらない。そういう映画、ありますよね。
海外での撮影も違いを楽しんで
--インドネシア映画のイメージ、魅力とは。
インドネシアは、いろんなことをミックスするのが上手なんです。例えば、宗教的にもイスラム教とキリスト教がミックスされている。国内向け映画はたくさん作られているが、ハリウッド映画も撮られている。そのノウハウのいいところ取りで現場は動いていた。イスラム人スタッフが多いので、宗教的な休息時間も設けられていた。私たちにも、外国人だからハリウッド方式という四角四面なことは言わず、すごく上手に扱ってくれる。そこがあの国の懐の深さなんです。
--黒沢監督の映画でもウズベキスタンとか海外で撮影しているが、芦澤さんもそうしたことに壁がない。
苦にならないですね。ウズベキスタンでは歴史を学びながら、黒沢組スタッフとして楽しむことができました。これから映画を作ろうという若い人たちには、アジアの国に輪を広げていい作品を作ってほしい。そうした場合はまず、日本と違う、ではなく、その国のやり方に合わせてみるところからスタートしてほしい。
「復讐は私にまかせて」は8月20日から、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開。全国順次公開予定。
■芦澤明子(あしざわ・あきこ)さん 撮影監督。1951年生まれ、東京都出身。青山学院大学時代にジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」を見て映画に深い関心を持ち、自主制作映画、ピンク映画の撮影、テレビコマーシャルに携わり、映画の世界に。「きみの友だち」「LOFT ロフト」「トウキョウソナタ」「わが母の記」「岸辺の旅」「散歩する侵略者」「海を駆ける」「子供はわかってあげない」など代表作多数。2018年に紫綬褒章を受章。