「チェイサー」©2008 Big House  Vantage Holdings. All Rights Reserved

「チェイサー」©2008 Big House Vantage Holdings. All Rights Reserved

2022.12.20

背筋凍る猟奇性と強烈な情感 韓国スリラーの実力示した「チェイサー」:謎とスリルのアンソロジー

ハラハラドキドキ、謎とスリルで魅惑するミステリー&サスペンス映画の世界。古今東西の名作の収集家、映画ライターの高橋諭治がキーワードから探ります。

高橋諭治

高橋諭治

韓国がミステリー&スリラージャンルにおいて世界屈指の注目すべき国であることに、異論を挟む人はほとんどいないだろう。筆者にその認識を強烈に印象づけたのは、2000年代に製作された〝3大クライムスリラー〟だった。ポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」(03年)、パク・チャヌク監督の「オールド・ボーイ」(03年)、そして今回取り上げるナ・ホンジン監督の「チェイサー」(08年)である。
 

キーワード「皮肉な人間性の回復」

「オールド・ボーイ」は日本の同名コミックを原作にしているが、それ以外の2作品は実話をベースにしている。「殺人の追憶」は1980年代後半から90年代初頭にかけて発生した華城連続殺人事件、「チェイサー」は03~04年に韓国社会を震撼(しんかん)させたソウル20人連続殺人事件が元ネタだ。
 
ただし「チェイサー」は同事件の全体像を描いているわけではなく、犯人が逮捕されるに至った最終局面をフィクショナルな視点によって映像化したものだ。この独自の〝脚色〟が実に優れているのだが、詳しくは後述する。
 

女性を狙う冷血サイコキラー

ソウルで風俗業を営む元刑事ジュンホ(キム・ユンソク)が、デリヘル嬢の相次ぐ失踪に不審を抱く。デリヘル嬢たちは、同じ電話番号の客と会った直後にいなくなっていた。この事実に気づいたジュンホは、その客のもとに派遣したばかりのミジン(ソ・ヨンヒ)と連絡を取ろうとするのだが……。
 
上記のあらすじにおける怪しい〝客〟ヨンミンを演じたのは、その後数々のヒット作に出演するハ・ジョンウ。デリヘル嬢を呼び出して理不尽な快楽殺人を繰り返すヨンミンは、血も涙もないサイコキラーだ。ひょうひょうとしていて何を考えているのかわからないハ・ジョンウの演技は、あまりにも生々しいバイオレンス描写と相まって、公開当時あらゆる観客の背筋を凍りつかせた。ヨンミンのキャラクター造形のモデルになった実際の犯人ユ・ヨンチョルは、女性に対して強い恨みを抱いていたとされる。 

後半に待ち受けるあり得ない展開

主人公であるジュンホの人物描写も興味深い。かつてトラブルを起こして警察を辞めたこの男は、自分が雇っているデリヘル嬢を商売道具としか考えていない。ところが消えたミジンを捜すうちに、シングルマザーである彼女の苦しい身の上を知り、幼い一人娘ウンジを保護するはめになったジュンホは、とうの昔に失っていた〝人情〟を取り戻していく。
 
ネタバレを避けるため詳細は伏せるが、本作の後半には通常の商業映画ではありえない衝撃的なストーリー展開が待ち受けている。ある人物に降りかかるその取り返しのつかない惨劇によって、最も精神的なダメージを被るのはジュンホなのだ。
 

深いテーマと感情の強度

映画冒頭のやさぐれたジュンホだったら、他人の不幸など気にも留めず、事件に深入りすることもなかっただろう。しかしミジンとウンジの境遇に哀れみを感じ、母娘を救いたいと願うようになったジュンホは、人間らしいぬくもりある感情を回復したがために、耐えがたい罪の意識にさいなまれるはめになる。
 
陰惨な実話から、長編デビュー作にしてこのような皮肉で深みあるテーマを見いだしたナ・ホンジン監督の着眼点にうならずにいられない。だからこそ本作はハ・ジョンウぶんする連続殺人鬼がまきちらす猟奇性のみならず、並外れた感情の強度を伴うスリラーとなった。本作を象徴する住宅街の路地でのチェイスシーンの臨場感も圧巻の一言だ。
 

国家財政危機のしわ寄せが弱者に

また、この映画は女性が虐げられ、ひどい目に遭うことが特徴的だが、決して作り手が悪趣味だからではない。犯人のユ・ヨンチョルは実際に数多くの風俗嬢を殺害しており、その背景には事件当時の韓国の暗い世相があった。
 
97年に国家財政の危機に見舞われた韓国は、そこからの回復途上の2000年代に貧富の格差が拡大していった。被害者となった風俗嬢はいわば社会の底辺であえぐ〝見捨てられた弱者〟であり、ヨンチョルにとって身分が不確かな彼女たちはいくら殺しても気づかれない好都合な獲物だった。その点に思いをはせると、この実話スリラーがなおさら恐ろしいものに思えてくる。
 

警察の無力さドキュメンタリーにも

さらに見る者を驚かせるのは、劇中でヨンミンに翻弄(ほんろう)されるソウル警察のどうしようもない無能ぶりだ。韓国のスリラーではしばしば国家権力が頼りにならない存在として描かれるが、本作のそれはまぎれもない事実に基づいている。
 
Netflixオリジナルのドキュメンタリー「レインコートキラー ソウル20人連続殺人事件」を見るとよくわかる。取材に応じた捜査官らが苦い自戒をこめて当時を振り返るこの全3話の犯罪ドキュメンタリーは、ユ・ヨンチョルの風俗嬢殺しのみならず、その前段となったソウルの高級住宅街を舞台にした富裕層連続殺人も網羅し、事件のすさまじい全容を知ることができる。「チェイサー」と併せての鑑賞をお勧めしたい。
 


「チェイサー」のブルーレイは5720円(税込み)で発売中。発売元:クロックワークス/アスミック・エース、販売元:ハピネット・メディアマーケティング。

ライター
高橋諭治

高橋諭治

たかはし・ゆじ 純真な少年時代に恐怖映画を見すぎて、人生を踏み外した映画ライター。毎日新聞「シネマの週末」、映画.com、劇場パンフレットなどに寄稿しながら、世界中の謎めいた映画、恐ろしい映画と日々格闘している。