警告。この映画に善意や救いを期待すると痛い目に遭う。強毒性の劇薬だが、その衝撃に耐えられれば人間や社会への冷徹な洞察にうなること請け合いだ。「或(あ)る終焉(しゅうえん)」「母という名の女」などのミシェル・フランコ監督が、人間社会の本性を暴き出す。格差社会への不満と怒りが臨界点を迎えるとどうなるか。暴力と混乱の果てに築かれるディストピアから、目を離せない。
抗議デモが暴動に発展し、町は大混乱に陥っている。一方、警備員に守られた豪邸に名士が集まり、マリアン(ネイアン・ゴンザレス・ノルビンド)の結婚パーティーが開かれていた。高い塀に隔てられた別世界は、塀を乗り越えた暴徒によってたちまち崩壊。倫理のタガもあっけなく外れ、使用人たちが雇い主に暴力を振るい略奪の限りを尽くす。混乱の中にも、マリアンはじめ善意の人物はいる。しかし安心してはいけない。フランコ監督は彼女たちも観客も、容赦なく突き放す。
例えば、たまたまマリアンと行動を共にすることになった使用人は、彼女をかくまったのに、マリアンを捜す軍の兵士に問答無用で射殺される。乾ききった描写には感情の入る隙(すき)がない。これはまだ序の口。悪趣味スレスレ、目を覆いたくなる展開が延々と続く。開巻間もなく始まった地獄絵図は陰惨さの度合いを増してゆく。
不愉快な映画という予感は当たっている。しかしその毒は同時に、私たちの心の奥の、怖いもの見たさや嗜虐(しぎゃく)性を刺激する。美しい心が報われるとは限らない。弱者が常に正しいわけではない。力を持つ者は言うに及ばず。弱肉強食の暗黒世界に、人間性はどこまであらがえるか。フランコ監督は絶望的な状況を差し出して、私たちの耐性を問うのである。ベネチア国際映画祭審査員大賞を受賞した。1時間26分。4日から東京・シアター・イメージフォーラム、大阪・シネ・リーブル梅田ほか。(勝)
ここに注目
「或る終焉」で看護師の主人公をめぐる死生観を、「母という名の女」では母性という概念を、特異な視点で描いてきたフランコ監督。過去作で〝社会〟は物語の背景にとどまっていたが、今回は世界中にくすぶる〝今そこにある危機〟と向き合った。これまでのミニマルで様式的な作風も一変し、ドキュメンタリー調の生々しさ、大勢のエキストラや視覚効果を投入したスケールの大きさに驚かされる。環境問題などでポジティブなイメージのある〝緑〟を、不気味な予兆をかき立てるシンボルカラーとして配した演出も目を引いた。(諭)
技あり
フランコ監督が新しい方法で映画を作ると宣言、冒頭からイブ・カぺ撮影監督の手持ちカメラが活躍する。崩壊した街角を見せる連続の実景5カットでは、車線を閉鎖し車を半減させ、大きな建物で画面を塞ぎ手前だけ飾り込む。高級商店街で動くのは下手に走り抜ける1人と、上手に抜けようとする救急車だけの不思議な緊迫感。略奪は狭い丁字路で見せ、お祭り感覚が真に迫る。サブリミナル効果を試し、軍の近未来風拠点をコンピューター画像で作る。監督が示唆するように、市民の怒りを封じ込めると暴発を招くとの「警告」になった。(渡)