「ゴジラ-1.0」がヒット街道をばく進している。山崎貴監督は1954年公開の「ゴジラ」第1作を強く意識し、終戦直後の日本に「戦争の象徴」としてのゴジラを登場させた。初代ゴジラの生みの親の一人、本多猪四郎監督が1992年10~11月のロングインタビューで語った半生と映画への思いを、未公開の貴重な発言も含めて掲載する。「ゴジラ-1.0」を読み解く手がかりとなるコラムと合わせて、どうぞ。
2023.11.12
第1回 ゴジラ前夜 日芸1期生からPCLへ
――本多監督は1911年5月、山形県東田川郡朝日村(現鶴岡市)で生まれた。
僕の生まれた山形県の村は自然の厳しいところでした。今ではバスも通って県内でも有数の金持ちの町らしいですが(笑い)、11月ごろから3月ごろまで深い雪に埋もれるのです。家の2階ぐらいまで埋まるんですよ。僕は親たちが、そんな厳しい自然と戦うのを見て育った。自然と人間との葛藤を描きたい遠因は、そこにあるのかもしれません。
映画との最初の出会いは、小学校に来る巡回映画ですね。運動場に張られた、風に揺れるスクリーンに映し出された、アメリカのブルーバード映画や西部劇に心躍らせた。(尾上)松之助映画など日本の映画も見たけれど、記憶に残ってないなあ。鮮明に覚えているのは、やはりアメリカなどのモダンな映画だな。(画面を通じて)外国の人に会えるというだけで楽しかったなあ。
当時、映画は一般大衆にとって一番手軽な娯楽でした。サイレント映画のらん熟期で、大きな映画街があちこちにできていた。映画は一生の仕事にするにふさわしい、将来伸びていく産業だと思った。今のように斜陽になるなんて、考えもしなかったね(笑い)。当時、アメリカやヨーロッパなどから続々と名画が入ってきていたので、人種を超えるコミュニケーション手段として映画に非常に魅力を感じました。
「よーい、スタート!」かっこいい!
――10歳の時に、父親の仕事の関係で、家族とともに上京する。
中学生ぐらいになると、目黒あたりの映画館に通い詰めた。封切館が(料金が)高くて行けない時は、二番館、三番館に落ちてくるのを待ちましてね。日本のものより外国のものが好きでしたね。画面にあふれる豊かさ、最も新しく、最も先鋭的な、日本にはない生活に憧れた。どの作品もスマートで、キレイで、面白くてね。未来を見ているみたいで、たまらなく刺激的でしたよ。
小学6年生ぐらいから、映画の世界への憧れが出てきました。最初は俳優(アクター)への興味だったんだけどね。小学6年生か中学生の時期だったかしら、神奈川県の日吉に住んでいるころ、近くの七曲というところに松竹蒲田の撮影隊が、よく時代劇のロケに来ていたんです。来ると一日中見物していたんですが、監督が格好良くてね。監督が「よーい、スタート!」という瞬間の緊張した雰囲気が何とも良かった。「ああなりたいなあ」と思いましたよ。
――当時はまだ、映画は生まれて間もない娯楽だったが、急速な発展を遂げていた。海外から輸入され、日本国内でも多くの作品が作られ始める。
トーキーが出てきたのが、ちょうど僕が日大に入るころじゃないかな。今でも覚えているのは、確か(エルンスト・)ルビッチの作品だったと思ったけど、「私の殺した男」(1932年)という映画がありましてね。戦場に行く息子を思い出す親の顔に、軍靴の行進する足音がかぶさる。サイレントだったら、当然、顔と行進する軍隊の画面のフラッシュバックになるでしょうね。それが音によって、一つの画面で親の心情まで表現できる。トーキーならではの表現に興奮した覚えがあります。こういった技術革新も起きてきた頃で、映画の前途は洋々たるものだと思われていたんです。
僕は名前からもわかるように四男でして、末っ子なんです。親からすれば、無責任な意味ではなくて「好きなこと、何をやってもいいぞ」みたいに思われていたんです。僕自身も「ブラジルで大農場を開きたいな」なんて思ったこともある(笑い)。
東京都世田ケ谷区のPCL撮影所航空写真=1937年2月
自然と人間の葛藤を描きたい
――31年、日本大学芸術学部映画科に入学。映画の道を歩き始めた。
映画への憧れも、そんないろいろな夢の中の一つだった。日本大学法文学部から芸術学部が独立した時に、入学しました。調べてみないと分かりませんが、映画学科ができたのも、多分、その時でしょう。だから1期生と言えるのかもしれません。
映画学科があるということを知った時、そうした漠然とした夢が、がぜん現実化したんですよ。「ここに行けば映画の世界に入れるかもしれない」と思った。そこで入学したんです。試験は面接だけだった。親は前にも言ったような感じだったから反対しませんでしたよ。
当時はルビッチ、(ルイス・)マイルストン、(フランク・)キャプラなんかの作品が好きでしたね。僕はシーン一つ一つが独立している映画より、全体で作品のテーマや登場人物を追求していく作品が好きなんですよ。僕もそういう映画を作りたいと思うし、1時間半でも2時間でも、その時間の中にテーマをぶち込みたい。
テーマとしては「自然と人間の葛藤、その厳しさ」みたいなものが、最も描きたいものですね。(ロバート・)フラハティの「アラン」(34年)という作品が好きなんだけれど、これなんか、まさに自然と人間との厳しい戦いを描いたものです。僕のデビュー作の「青い真珠」(51年)でも、そういった自然と人間との関係を描きたかった。
森岩雄が青田買い 金曜会に参加
――日大芸術学部はその後、映画監督やスタッフを輩出する。
当時の日大芸術学部は、開成中学という夜間中学の校舎を昼間に借りて、授業をしていました。機材なんか何もないし、カメラを触って撮影みたいなことをしたのは、卒業制作で鎌倉あたりに行った時だけだな。そこで(機材などを借りる過程で)PCL(東宝の前身)とつながりができたんですよ。
芸術学部全体で300人ぐらい生徒がいたけれど、映画学科は150人ぐらいだったかな。でも授業に出てくるのは3分の1から5分の1ぐらいですよ。
授業は多かったですよ。芸術概論とか語学とか、1日5~6時間あったんじゃないかな。けれど肝心の映画の授業は休講が多かった。というのも、講師が松竹の脚本家とか日活の監督とか、現場の人なわけですから、忙しいんですよ。休講になると、5人ぐらいの仲間と一緒に新橋に借りていた部屋で映画の話ばかりしていた。一種の映画研究会ですな。
――大学卒業前の33年、PCLに入社。
講師の中に、後に東宝の副社長になる森岩雄さんがいてね。リポートを書かされたことがある。テーマは「映画の芸術性と大衆性について」だったかな。僕は「名作というものは芸術性とか大衆性とかで分けられない。娯楽のつもりで作っても芸術性を持つこともあるし、その逆もある」みたいなことを書いたんですよ。それが目についたのかどうかは知らないが、PCL設立の際、森さんがさまざまな大学の映画研究会の学生を集めて、撮影所で映画研究会を開かせた時、日大から僕ともう1人が呼ばれたんですよ。毎週金曜日に開くので「金曜会」といった。谷口千吉や亀井文夫もいたなあ。来るPCL設立に向けての青田買いですね。
昭和8(1933)年の夏にPCLの監督部に正式入社しました。いわば幹部候補生ですね。助監督として、最初は木村荘十二さんについて、翌年かな、山本嘉次郎さんにつきました。エノケン映画だったと思う。僕らはとにかく、助監督的な仕事からスクリプター、編集など、現場を知るために散々勉強させてもらった。森さんの方針だったと思うけれど、PCLには将来に向けて若者を育てるというシステムがきちんとできていたんです。