「ゴジラ-1.0」がヒット街道をばく進している。山崎貴監督は1954年公開の「ゴジラ」第1作を強く意識し、終戦直後の日本に「戦争の象徴」としてのゴジラを登場させた。初代ゴジラの生みの親の一人、本多猪四郎監督が1992年10~11月のロングインタビューで語った半生と映画への思いを、未公開の貴重な発言も含めて掲載する。「ゴジラ-1.0」を読み解く手がかりとなるコラムと合わせて、どうぞ。
2023.11.01
<ネタバレ注意>マルチバースの戦後日本を選んだ「-1.0」がゴジラ映画として名作なわけ
「○○はどうあるべきか」などとという高尚な「語られ方」をされる映画の主人公は「ジェームズ・ボンド」と「ゴジラ」くらいであろう。主人公ではないが「健さん」も加えていいかもしれない。時を超えて「あるべき姿」を求められるキャラクターは、そう多くはない。ゴジラはそれだけ「すごい」ものなのだ。このゴジラ映画の新作「ゴジラ-1.0」を見てそれを再認識した。何がどうすごいか、「最近の映画」「ゴジラ映画」「文芸浪漫映画」という三つの視点から味わってみたい。
*映画の結末まで触れています。
〝戦争被害者〟を代表する登場人物
「最近の映画」といっても1990年代からの約30年にわたるが、「物語」も「絵」も「演技」もない「自称映画」がはびこる中で、2時間ちゃんとおしまいまで座らせてくれた久々の映画であった。物語の流れが実にスムーズで「次はどうなる」と答え合わせを期待させる引っ張り方をする。山崎貴監督の手腕を高く評価するところである。「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズで完成させた、VFXと実写の違和感のないつながりがあってこその成果である。
その映画的成功の裏側にある一つの要因は、背景となる状況設定の単純化であろう。現実の日本史をある程度無視して再構築しているのは明らかで、「数十年前の日本の風景や歴史と似ているマルチバース日本」での出来事と考えないと、一部の登場人物の体温のない演技は納得のしようがない。
何のことかと言えば、劇中の日本は戦争の「被害者」であり、主人公たちはその代表であるという前提での物語なのだ。さらに、ゴジラ退治の理由に、どこか「愛国」があり、どこか身勝手な「自己愛」があるのだ。ウクライナやパレスチナ問題が存在する今の時代に「いかがなものか」と思わせないでもない。だが、単純化疑似化した「想像上の日本」の物語としては成立する。山崎監督は、その「バーチャル戦後日本」であえて暴れて見せた。この腕力と映像は大いに評価されよう。
理屈も説明もない根源的恐怖の対象
山崎監督の慧眼(けいがん)は「ゴジラが何であるか」という根本的な問答を一切捨てたところである。理屈も説明もなく「ゴジラは『ある』」としたところが、ゴジラ映画として説得力を持った。西洋合理主義では、ハリウッド版を見ればわかる通り「人間の理屈」の中に持ち込まないとゴジラもコングも地下世界もない。「私のIQで理解させてくれ」という観客の要求に合わせて製作する映画人の苦悩が見て取れる。
山崎監督は、そこから離れ、「大きな化け物」の謎解きは取りあえず置いといて、「その怪物がもたらす災厄から逃げようとする人間」だけに集中した。それゆえ怪物のもたらす「恐怖と脅威」の描写はすさまじい。その一点で、ゴジラ映画として旧作をしのがんばかりの素晴らしい価値を生み出した。
個人的には「ゴジラとは恐怖の記憶」だと定義付けている。山崎監督が同意するかどうかは知らぬが、このDNAに刻み込まれたような説明のできない恐怖感を、今回のゴジラは真にうまく表現している。小さな木造船を追い掛けるゴジラの姿には、座席から腰が浮くくらいの恐怖を突き付けられた。小さな子供が、獅子舞やなまはげを恐れるのと同じである。中に人間が入っていると知っていても、理屈ではない恐怖は襲ってくるのだ。
元特攻隊員が選んだ幻の戦闘機
また、ゴジラを倒すために、「非力な人間が何をどうするか」がゴジラ映画の眼目の一つである。「オキシジェン・デストロイヤー」なのか、「メカゴジラ」なのか、「スーパーX」なのか……。特攻隊崩れの元飛行兵が、自分史の整理と私怨(しえん)を晴らすため(このモチベーションもやや残念なところである)に、対ゴジラ兵器の一つとして選んだのは、幻の戦闘機「震電」というのが、実に泣かせどころなのである。
現実にはB29に対抗するために作られた超高高度局地戦闘機であるから、体高50メートルのゴジラには、その性能はあまり意味がないのだが、零戦に乗ってドロップアウトした主人公にとっては「再生」の象徴なのである。松本零士や望月三起也などが描いた戦記漫画ファンにはたまらない選択である。全然「スーパー」でないところがいいのだ。ここも「ALWAYS 三丁目の夕日」に本物のダイハツ・ミゼットを使った山崎監督のセンスが光るのだ。
のっしのっしと歩く「生き物ではない」存在
加えて、ゴジラの造形や設定に対する研究が奥深い。ゴジラは、これまでの映画の中でも、初めは「生物」と語られる場合が多いが、「そうでない」ことは、徐々に明かされる。だから、やたら素早い〝イグアナ変異体〟(「GODZILLA」、1998年、ローランド・エメリッヒ監督)や、すぐに気張ってほえる〝血を吸ったゴム風船ノミ〟(「GODZILLA ゴジラ」、2014年、ギャレス・エドワーズ監督)の「形」は、まずよろしくないのである。のっしのっしと重量感たっぷりに動いてくれないと「生き物ではないぞ!」という力強く神々しい「風格」が出ない。そこを山崎監督は理解し具現している。
あと、体高が低い設定であることも好感が持てる。こちらが非力でもどうにかなりそうである。戦う者に希望を与える大きさに設定したことが、主人公や退役軍艦が活躍するクライマックスシーンに生きるのである。そう、自衛隊もGフォースもない「敗戦国・日本」を「-1.0という背景」にした意味がここにあるのだ。「恐怖の体感」を共有する状況を山崎監督は、このサイズに比定したのである。「恐怖」を描き切ったことで、このゴジラ映画は名作となった。
黄金期東宝の文芸浪漫のにおい
さて、文頭に持ち出した「文芸浪漫映画」って何の話だ、と思われる方も少なくないだろうが、ゴジラ映画には少なからず東宝お得意の「文芸作品」的要素が織り込まれている。堀川弘通、成瀬巳喜男、豊田四郎、谷口千吉、川島雄三、もちろん本多猪四郎……昭和20年代から30年代にかけ、この名監督たちによって、どれだけ庶民の心が温かくなったことか。山崎監督は、「-0.1」の背景を利用しこの「文芸浪漫」を混ぜ込もうとしたフシがある。それは、主人公と共に戦う学者や船員、また主人公と押し掛けてきた女と赤ん坊との人間ドラマの部分である。
これは「-0.1」を成功に導くに実にうまい仕掛けだ!と感じた。「ゴジラとは何か」の問答を棚上げどころか放棄してゴジラ映画を終息させるために、「怪獣映画」から「文芸映画」にすり替えて、いつしか観客を納得させる起死回生一発逆転の大作戦を山崎監督が選んだと踏んだのだ。
落ち着いているのはゴジラだけ……
だが申し訳ないが、この大転換には役者の技量が不可欠、必須である。山崎監督の意気やよし、意図も理解できた。が、役者の演技が「ゴジラ FINAL WARS」(04年、北村龍平監督)並みでは、痛々しい。落ち着いているのがゴジラだけとは何事か。これではゴジラと山崎監督がかわいそうではないか。
この項について、じゃ、どのシーンだ、どのセリフだ、ということはいちいち取り上げない。ちなみに「落第」でなかったのは、元海軍工廠(こうしょう)の科学者、野田を演じた吉岡秀隆の頑張りと、神木隆之介が演じる主人公敷島が、病室へ入ったラストシーンによる。同じように、どのシーンがどの映画のオマージュで、引用で、パロディーで、誰がカメオで……などの「小ネタ知ってるぞオンパレード」はやらない。それは見る人の楽しみに取って置く。
以上、縷々(るる)「ゴジラ-1.0」について記述したが、すべてがゴジラ映画愛に基づくものとして、意に沿わぬ箇所は看過していただきたい。