「枯れ葉」 © Sputnik

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2023.12.21

無愛想の極みカウリスマキ映画が心に響くわけ「枯れ葉」:藤原帰一のいつでもシネマ

藤原帰一・千葉大学特任教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

藤原帰一

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フィンランド、いや、世界を代表する映画監督アキ・カウリスマキが映画監督引退を撤回して6年ぶりに発表した作品。さて、こんなふうにご紹介すると、カウリスマキ監督の作品をご覧になったことのない方は、さぞ大仰で難しい面倒な映画じゃないかと恐れをなすことがあるんじゃないかと思いますが、いえいえ、そんな心配は、まったくご無用。予備知識なしに映画館に行って映画に浸り、1時間半に満たない時間で終わるのは惜しい、もっと続くといいのに、なんて幸せな気持ちで映画館を出ることができる。講釈抜きで楽しめる作品です。


人生の秋にあったロマンス

とはいえ、映画に出てくる人は貧しく、生活に追われ、職場も住まいもごくシンプル、というよりも殺風景。登場する人たちは極端に寡黙で、例外なく無表情、笑顔を浮かべることもほとんどない。そんな無愛想の極みみたいな映画なのに、心に響く。それこそがカウリスマキ監督の特技なんですね。おかげで人生の秋を迎えた男女のロマンスが、希望があって気持ちの明るくなる映画になりました。

主人公はアンサとホラッパという名の男女なんですが、2人ともけっこう年がいっているのに1人暮らしなうえ、貧乏な暮らし。時折流されるラジオのニュースからマリウポリの病院攻撃などウクライナの戦争が伝えられるので、現代が舞台だとわかるんですが、テレビではなくラジオだし、電話だって固定電話。思いっきりシンプルな生活ですが、貧しいからなんですね。

おまけに映画が始まってすぐ、2人とも仕事をクビになってしまいます。アンサはスーパーで働いていましたが、賞味期限切れのために廃棄する食品をホームレスの男に渡しているところを見つけられ、自分のバッグにも期限切れ食品を入れたことがわかって、即座にクビ。ホラッパは工事現場で働いていますが、職場でも隠れてお酒を飲むような酒浸りの毎日で、この人もクビ。ロマンスよりも仕事ちゃんと見つかるのか、そっちの方が気になるような映画の始まりです。


恥ずかしげもないすれ違いの映画

とはいえ2人が知り合わなくちゃ映画になりませんね。アンサとホラッパが最初に出会うのはカラオケバー。といっても2人とも歌を歌うわけじゃなくて、相手をちょっと見つめるだけ、言葉を交わすこともありません。次の出会いは、アンサが勤め始めたカフェ。ここでは言葉を交わさないどころか見つめ合うことさえないんですが、カフェの帰り、アンサは夜のバス停でホラッパが酔い潰れているところを見つけます。ここでは何もしないでアンサはバスに乗っちゃいますが、もうホラッパのことが気になって仕方ない。もちろん2人は知り合うことになりますけど、せっかくアンサが電話番号を紙に書いて渡してあげたのに、ホラッパはその紙をなくしてしまいます。

なんだかジリジリしちゃう展開ですね。やがては結ばれるはずの男と女がなかなか出会わず、出会った後も、いろいろなことが起こるので、再会を果たすことができない。岸恵子が出た方の「君の名は」やデボラ・カーとケーリー・グラントの「めぐり逢い」をお考えになればおわかりのように、男女のすれ違いによって観客をジリジリさせるのはロマンチック映画の定石ですけど、はい、この「枯れ葉」、社会派映画のリアリズムじゃないかというくらいに地味な舞台なのに、実は恥ずかしげもなく堂々と、古式ゆかしいロマンチック映画を再現した作品なんです。筋書きのご紹介はこれくらいにしておきますが、何といっても古き良き伝統に従ったロマンチック映画ですから、ハッピーエンドが待っていることだけは申し上げてしまいましょう。


貧しい人たちの暮らしとユーモア

カウリスマキはいつも貧しい人の暮らしを描いてきました。近作の「ル・アーヴルの靴みがき」や「希望のかなた」では移民や難民が映画の焦点でしたが(この二つの映画を見てない人、損してますよ)、それよりも前の作品では労働者の社会が舞台。この「枯れ葉」には、「マッチ工場の少女」などカウリスマキ中期の作品と似た手触りがあるので、私のような古くからのファンは、カウリスマキが戻ってきたなんて気持ちになってしまいます。

そして、救いとユーモアがある。労働者の社会を描くなんていうと「わたしは、ダニエル・ブレイク」のケン・ローチ監督のように社会の不公正に対する怒りを爆発させた映画を考えちゃいますが、カウリスマキの場合、出てくる人は人情いっぱいで、おまけに現実にはあり得ないような幸せが舞い降りてくる。社会の厳しい現実とほとんど不条理なくらいの幸福がくっついちゃうところがこの監督の面白さなんだろうと思います。


クリアで狂いのない構図

どの画面もわざとらしいカメラアングルや編集なんかないのに、構図がクリアで、狂いがない。しかも小津安二郎監督のような配慮に配慮を重ねた構図という印象は与えず、そのままカメラを回したような自然体なんです。無手勝流とも見える自然な表現のおかげで、観客は映画を見ているのではなく、現実のなかに自分が置かれたような気になってしまう。すごいリアリティーです。

でも、口下手な主人公たちの心のうちをどうやったら映画として表現できるでしょうか。普通なら俳優の演技やセリフによって伝えるわけですが、何といってもカウリスマキ、誰もがみんな無愛想なくらい表情に出さない。それでも気持ちが伝わるのは、映画のなかにいくつも歌があって、その歌の歌詞によって心の奥が言葉にされてるからなんです。

シャイで口下手な男女の思いを歌に語らせる映画といえば、すぐ「ONCE ダブリンの街角で」が思い浮かびますね。これもチャーミングなうえにすごく短くてすぐ終わっちゃう映画でしたが、ミュージカル仕立てがはっきりしている「ONCE」と違って、この「枯れ葉」では歌が背後に引っ込んでいるくせに、歌を通して気持ちがわかる。さりげなく、しかも的確で巧みな映画づくりです。

映画の題名が「枯れ葉」だし、音楽を通して表現するわけですから、どうしたって締めくくりになる曲はひとつしかありませんね。そのラストシーンをお楽しみにご覧いただけますと幸いです。

ライター
藤原帰一

藤原帰一

ふじわら・きいち 順天堂大国際教養学研究科特任教授、映画ライター。1956年生まれ。専攻は国際政治。著書に「戦争の条件」(集英社)、「これは映画だ!」(朝日新聞出版)など。「映画を見る合間に政治学を勉強しています」と語るほどの映画通。公開予定の新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

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