「熊は、いない」©2022_JP Production_all rights reserved

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2023.9.09

自由を問い続けるパナヒ監督が示す 〝イランで撮る〟覚悟 「熊は、いない」:いつでもシネマ

藤原帰一・千葉大学特任教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

藤原帰一

藤原帰一

イランを代表する監督、いや現代映画で最も重要な映画作家のひとり、ジャファル・パナヒの新作です。本人も繰り返して言ってきたように、政治不正を糾弾するスタイルの監督ではないのですが、その仕事を理解するためには、やはりイランの歴史を振り返らなければなりません。
 


 

革命後の神権政治と自由への希求

イランといえば神権政治によって知られる国ですね。パーレビ国王に反対する勢力によって革命が起こり、国外で活動していたホメイニ師が帰国、1979年にイラン・イスラム共和国が発足しました。革命後のイランでは、ホメイニ師、その死後はハメネイ師を最高指導者として、イスラム法を厳格に適用する社会秩序がつくられてゆきました。さらに女性はヘジャブとチャドルによって頭と体を覆い隠すことが求められ、違反行為は道徳警察によって厳しく摘発されてきました。
 
革命前のイランでは宗教的規律の強制は弱く、世俗化が進み、さらに経済発展と都市化も展開していました。パーレビ国王を追い落とした民衆も、言論の自由を求めることはあっても、その自由を宗教組織に譲り渡すことを求めたわけではありません。それだけにイラン革命はイラン社会のなかにおける世俗的・西欧的影響を受けた人々との間に大きな亀裂を生み出します。そして映画は、そのイラン社会の亀裂を表現してきた媒体でした。

 

逮捕されても禁じられても撮り続ける

イラン映画に世界の関心を集めるきっかけをつくったのが「友だちのうちはどこ?」以降の作品で知られるキアロスタミ監督ですが、ジャファル・パナヒはそのキアロスタミ監督のもとで助監督を務め、「白い風船」によって一躍注目を集めました。その後も「チャドルと生きる」や「オフサイド・ガールズ」などの作品を発表してきましたが、2010年、イラン政府に対してプロパガンダを行ったとの理由から逮捕され、イラン国外への出国と、映画製作を禁止されてしまいます。
 
パナヒ監督がすごいのはその後。映画製作を禁じられたのに、映画を作り続けるんですね。「これは映画ではない」というとぼけた題名の作品では、パナヒ監督のアパートの一室を舞台として、そこにやってきた人たちとの会話を通して映画が展開される。そのまま日常を表現したというものではなく明らかに構築された映像空間なのですが、映画じゃない、撮っただけだというんですね。その映像も、お菓子の缶に入れて国外に持ち出し、映画祭で上映されました。
 
さらにすばらしいのが、「人生タクシー」。イランではバスのように乗客がタクシーに乗り合うらしいんですが、パナヒ監督が乗り合いタクシーの運転手を務めた、というよりは自ら運転する乗り合いタクシーに据え付けられたカメラの映像を収録したという設定です。映画じゃないという見せかけの下で映画表現を続けるという、ほとんどゲリラ的な映画づくりを進めてきたんです。

ベネチア国際映画祭で審査員特別賞

今回ご紹介する「熊は、いない」は、そのパナヒ監督の最新作。22年7月、映画の完成後にパナヒ監督はまた逮捕され、ベネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞しましたが、監督は出席できませんでした。パナヒはハンストで抵抗した後、23年2月に保釈されます。一時出国を認められたと報道されていますが、現在の活動について情報を得ることはできませんでした。
 
この「熊は、いない」は、イラン政府の政策を批判するというより、伝統に縛られて自由を奪われたイラン社会を描くことに力点を置いています。イランの国境に近い村にパナヒ監督が行き、国境の向こうにいるスタッフと連絡を取りながら、政府に禁止されている映画製作を試みるわけですが、この村の男女関係、というより誰をパートナーにするのかを自分で選ぶことのできない社会の姿を描いています。
 
二つの境界を越える映画です。ひとつは、イランと、その外の世界の境界ですね。映画のなかでパナヒが作っている劇中劇、またパナヒ監督本人の登場する映画本体のどちらでも、登場する男女のカップルはイランの外に出ようとする。もう一つの境界は現実とフィクション。パナヒ監督の映画では本人が登場するのでそれが現実であるように思わされますが、その「現実」も構築された空間には違いないわけで、現実とフィクションの境界を越えてしまう。国境を越えるストーリーが現実とフィクションの境界を踏み越えて描かれています。

横暴な国家で生きる人々と社会 ユーモア込めて

パナヒ監督が宗教的な規範を国民に強制する国家権力に批判的な立場を取っていることは明らかですが、国家の横暴を糾弾するという政治的な映画じゃありません。たとえば06年に発表された「オフサイド・ガールズ」は、サッカーのワールドカップ予選を見たいのに、男しか見てはいけないというので、女の子たちが男の子のふりをしてスタジアムに向かうというお話。男しかサッカーの試合を見てはいけないと強制する国家のもとに置かれていても、工夫を凝らしてサッカーを見ようとする少女たちの姿が、チャーミングで、生き生きとしていました。
 
「人生タクシー」に出てくる人たちも、おしゃべりをやめようとしないパナヒ監督のめいの少女とか、国家権力に屈服するなんて考えられないくらい元気いっぱい。国家権力が何をしたところで抑えることなんてできない人々の姿と言えばいいでしょうか。イランの国家を糾弾することよりも、そこに生きる人間と社会がユーモラスに捉えられています。
 
パナヒ監督の映画は、次第に暗くなってきたように思います。「人生タクシー」に続いて発表された「ある女優の不在」では、革命後のイラン国家だけではなく、革命の前から現在まで引き継がれてきた、伝統に縛られた社会の姿が描き出されていました。革命前には映画俳優だった女性が、他の人に話すこともなくひとりで暮らす、その姿がスクリーンの向こうに映っている姿が印象的でした。

国境は越えない とどまって撮り続ける

そしてこの「熊は、いない」では、出演している女優が、監督の映画づくりを糾弾する。現実であるかのように見せかけながら現実を仮構する、そんな映画を撮ることのどこに意味があるのかと、撮影のさなかに公然とパナヒ監督を非難し、いなくなってしまうんですね。イランの外の世界に向かってイラン社会を告発する、そんなことをすることにどこまで意味があるのか。パナヒ監督が自分自身を疑う肉声を聞くように思いました。
 
でも、国境のなかにパナヒはとどまります。パナヒ監督はイランから出国することを禁止されてきましたが、密出国をしようとすればできたでしょう。でも、イランの国外に出ようとはしませんでした。この「熊は、いない」のなかでは、国境の向こうの撮影現場に行くことを求められ、夜中に車で国境そばまで行きながら、パナヒ監督がもとの村へと戻ってしまう場面が出てきます。
 
国家の監視を逃れて外国に行くことは不可能ではない。それでも自分の住むイランに踏みとどまり、禁じられた映画製作に取り組むことしか自分にできることはない。それはイラン国外に向かってイラン社会の不正を訴えるためではなく、イラン社会を描くことがパナヒ監督の選んだ仕事だからです。イラン社会が限界的な状況にあってなお、イランに残って生き続けようとするパナヒ監督の覚悟を感じさせる映画です。

ライター
藤原帰一

藤原帰一

ふじわら・きいち 千葉大学特任教授、映画ライター。1956年生まれ。専攻は国際政治。著書に「戦争の条件」(集英社)、「これは映画だ!」(朝日新聞出版)など。「映画を見る合間に政治学を勉強しています」と語るほどの映画通。公開予定の新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。