藤原帰一・千葉大学特任教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。
2023.11.10
暴力の連鎖止める決意 悲しみを乗り越えて 「ぼくは君を憎まないことにした」:藤原帰一のいつでもシネマ
最初に一つ、ご質問。武装テロによってあなたの妻、夫、あるいは子どもや親が殺されてしまったら、あなたはどうしますか。
大切な人が命を奪われたら……
むごい質問ですね。自分にとって大切な人が命を失うという状況を目に浮かべるだけでショックを受ける人もいるでしょう。なぜ死んでしまったのか、どうして自分ではなく、大切な人のほうが死んでしまったのか。その人の声や姿がフラッシュバックのように襲いかかり、悲嘆に暮れる。どうしますかなどと問われても、どうしようもない。その人の命は戻ってこないからです。
怒りと憎しみも湧き起こるでしょう。理由もなく人を殺すなんて、同じ人間のすることではない。大切な人を殺した人たちが生き延び、さらに多くの人を殺すことがあってはならない。湧き起こった憎悪は他の人たちの命を守るという正当な目的に支えられて、犯人、あるいは犯罪組織をこの世から排除しなければならないという使命感にもつながるかもしれません。犯罪組織に政府が手をこまねいていれば政府に対する怒りが生まれるでしょうし、逆に政府が大規模な反テロ作戦、極端な場合は空爆を加えても、当然のことだと支持するかもしれません。憎悪が憎悪を呼び起こし、暴力の連鎖が生まれてしまいます。
テロに巻き込まれた妻を探して
じゃ、どうすればいいんでしょうか。テロによって妻を殺された男の姿を描いたこの映画、「ぼくは君たちを憎まないことにした」は、一つの方向を示しています。
主人公のアントワーヌは、妻のエレーヌと、ひとり息子のメルビルと一緒に、パリのアパートに住んでいます。アントワーヌはライターですが、書いた原稿はなかなか認めてもらえません。外に出て働いているのがエレーヌなので、保育園にメルビルを預けるのはアントワーヌの役目です。バカンスになったらコルシカ島に家族3人で行く予定を立てていたところ、仕事が入った、一緒には行けないとエレーヌに申し渡され、アントワーヌはむくれてしまいます。
ある日、友だちと一緒にコンサートに出かけたエレーヌがなかなか帰ってきません。アントワーヌはスポーツの試合なんか見ているんですが、どうも大規模なテロが起こったらしい。しかもそのテロの犠牲者が多いのは、エレーヌの行った劇場、バタクランらしい。いくら電話をしても返事がありません。犠牲者が誰でどの病院に運ばれたのかも知ることができません。アントワーヌは焦燥と恐怖に駆られて、パリの街を探し回ります。
2015年11月13日、パリの同時多発テロ
バタクランと申し上げただけで何の話かおわかりになった方も多いでしょう。2015年11月13日、パリで同時多発テロ事件が発生し、なかでもアメリカのロックバンドのコンサートが開かれていた会場のバタクランには乱入したテロリストによって89人もの方がお亡くなりになりました。日本をはじめ世界でも広く報道された残虐な事件です。そう、これはパリ同時多発テロ事件の犠牲者の家族のお話なんですね。
エレーヌがどこにいったのか、わからない時間が続きますが、ようやく病院がわかったら、医師や看護師もいない病室にはエレーヌが静かに横たわるだけ。体には機器もチューブもつながっていない。やっと会えた妻はもう死んでいたんです。
加害者に送った遺族の「手紙」
妻を失ったアントワーヌはメトロの駅を歩き回ります。その姿を追いかけるように、妻を殺した人々に対してアントワーヌの書いた「手紙」が、アントワーヌ自身の声によって朗読されます。誰が犯人なのかもどこに住んでいるのかもアントワーヌも知らないわけですから、通常の手紙として送られるものと言うよりも、テロリストに対するアントワーヌのメッセージとも呼ぶべきものですね。少し長くなりますが、引用しましょう。
君はぼくの大切な人を奪った。ぼくの最愛の人、息子の母親を。でも君たちを憎まない。(中略)君たちは死せる魂だ。君たちの神が惨殺を命じたなら、妻の体の銃弾はその神の心を傷つける。君たちに憎しみを送らない。君たちの憎しみに怒りで応えたなら、同じ無知に属することになる。君たちは望んでいる、僕が恐れ、人々を疑い、おびえて暮らすことを。君たちの負けだ。人生は続く。
「君たちに憎しみを送らない」。この映画の題名と重なる言葉ですが、これは犠牲者の夫が加害者に送った「手紙」だったんですね。場面の終わりには、鉄道の線路が映っています。線路の先には、トンネルの出口なのでしょうか、薄明かりが差しています。
アントワーヌがこの「手紙」をソーシャルメディアにアップロードしたところ、新聞社から依頼があり、「手紙」は新聞に転載されます。これがたいへんな反響を巻き起こします。妻を殺されながら憎しみを送らないというアントワーヌの言葉が感動を呼び起こしたんですね。メルビルの通う保育園では、私たちが交代であなたのお食事をつくります、どうぞ召し上がってくださいなんて言われ、特製スープを渡されます。テレビ局から、それもフランスだけでなく英語のメディアからも取材されることになります。
毅然としながらも動揺隠せず
この「手紙」とその反響が映画で描かれるのは、映画のまだ真ん中くらいのところです。これ、ちょっと驚きました。だって、妻を殺されたあと、悲嘆に暮れ、現実の否定、あるいは憎悪と怒りに襲われたりしたあげく、ようやく「憎しみを送らない」というメッセージに到着したなんてストーリーになりそうじゃありませんか。まだ映画の中盤なのにクライマックスを迎えたら、これから先の時間はどうするんだろうなんて余分な心配をしてしまいます。
これ、まさに余分な心配でした。妻の死を受け、憎悪に対して憎悪で応じないという決意を示した「手紙」を書いたわけですが、やはり愛する人を失った衝撃は大きく、「手紙」に書かれたように「人生は続く」なんてふうにはとてもいかないからです。お葬式を前にして、お棺とか墓石のサイズを決めなければいけないのですが、妻を見送る心の準備ができない。テレビのインタビューに答えるとき、「手紙」を書いた理由を問われ、それは自分の息子のためだ、「僕が恨みを抱いたまま息子を育てたなら息子は犯人と同じ人間になってしまう、暗い面しか見ることのできない人間」になってしまうからだなんて言葉を口にしますが、悲嘆が大きすぎて、その言葉をうまく言えません。毅然(きぜん)とした「手紙」と現実のアントワーヌとの間に距離が開いています。
言葉と決意を凌駕する悲しみ
憎しみを送らないというメッセージよりも、メッセージを書いた後も悲嘆に引き裂かれたままの状態が続くアントワーヌの姿が描かれることによってこの映画は成功した、と私は思います。憎悪に対し憎悪では応えないという姿勢はすばらしいと思いますが、喪失のもたらす悲嘆はそのような言葉や姿勢を凌駕(りょうが)する力があるからです。
テロ犠牲者の家族を描いた作品は少なくありません。フランスに限っても、「アマンダと僕」なんて作品がありました。そのなかでこの映画が優れている点は、死の受け止めを言葉で表したからではなく、言葉をつくしたところで悲嘆の力にはあらがえないという厳しさを描いた点にあると考えます。
アメリカの同時多発テロ事件とアフガニスタン・イラク介入、そしてイスラエル・パレスチナ紛争が無残に示すように、憎悪が憎悪を招き、暴力の連鎖が続くことは決して珍しくありません。だからこそ憎悪によって応えないことが必要であり、私もそのように書いてきました。ただ、そのようなことを外から言うだけでは当事者の懊悩(おうのう)を捉えたことにはなりません。どうしようもない悲嘆の共有を踏まえた上でなければ、憎悪によって憎悪に答えてはならないという言葉には力がないことを思い知らされました。