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2025.1.28
ワンオペ育児疲れで主婦が犬に変化⁉ アカデミー賞スタジオによる強烈で切実な寓話「ナイトビッチ」
2023年の出生率が1.20と過去最低をマークした日本。厚生労働省の資料によると年間の出生数72万人に対して死亡数は157万人、総人口は推計で1億2435万人と前年より60万人近くダウンした。国立社会保障・人口問題研究所の試算では2054年には日本の総人口は1億人を割るという。
この事態に政府は「異次元の少子化対策」を掲げて子育て支援を促進しているが、現状ではなかなか歯止めが利いていない。物価の高騰や「103万の壁」に代表される年収の壁問題もあり、育児と仕事の両立が年々厳しくなっている。
主婦/主夫の概念も揺らぎつつある状況下で、1本の「育児映画」がリリースされた。レイチェル・ヨーダーが21年に発表した小説を原作に、育児疲れの主婦が自分を犬と思い込んでいく――というエッジーな物語が展開する「ナイトビッチ」だ(1月24日からディズニープラスにて配信中)。
24時間365日、ハードな生活を送る専業主婦
第91回アカデミー賞3部門ノミネート作「ある女流作家の罪と罰」の監督で知られ、Netflixシリーズ「クイーンズ・ギャンビット」ほか俳優としても活躍しているマリエル・ヘラーが「メッセージ」のエイミー・アダムスを主演に迎えた本作。
「ゼロ・ダーク・サーティ」や「her/世界でひとつの彼女」のアンナプルナ・ピクチャーズが製作、第97回アカデミー賞に「リアル・ペイン~心の旅~」「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」がノミネートされたサーチライト・ピクチャーズが本国配給を手掛けている。この並びを見ると賞レース常連メンバーが集った手堅い作品に思えるかもしれないが、「ナイトビッチ」の中身は実に強烈で生々しく、切実な悲鳴がこれでもかと詰め込まれている。
アーティストの夢をあきらめ、専業主婦として2歳の息子を育てる母(エイミー・アダムス)。夫(スクート・マクネイリー)は仕事でほぼ家を空けがちで、たまに帰ってきても戦力として期待できず、24時間365日ワンオペ状態。ハードな生活で体に毛が生え始めたり感覚が鋭敏になったりといった身体的変化を経験し、母は「自分が犬に変化しているのではないか?」と確信を強めていく――。
専業主婦、ワンオペ育児の〝あるある〟をどぎつく表現
主人公に役名がない点からも察せられる通り、本作は個人でなく〝専業主婦〟そのものを描き出そうとした物語。全編を通して〝あるある〟の宝庫となっている。冒頭、スーパーで出会った職場の後輩に「家にいられる気分はどう?」と無知で無邪気な言葉を投げつけられた母は「実際は真夜中に泣きたくなる」「刑務所に閉じ込められている気がする」「賢く幸せで元の体には二度と戻れないと内心すごく怖い」と脳内で吐露するが、口から出てくる言葉は「母親ってすてきよ」だけ。
夫が家を空けている間は風呂も満足に入れず、睡眠も取れず、子どもと親たちが集まる読み聞かせの会の雰囲気にはなかなかなじめない(短いシーンを小刻みにつなぎ、子どもと2人きりの閉鎖的な毎日をビビッドに表現した演出が鮮烈!)。やっと帰宅した夫はドアを乱暴に閉め、育児や家事の最中にしょっちゅうサポートを求めるなど配慮も何もない。
「自分は外で仕事を頑張っている」「育児は妻のやるもの」という意識があるからか、「今日は僕がベビーシッター役だ」といった不用意な発言で傷つけてしまう始末。気を取り直して久しぶりに外出して同窓会に参加するが、アーティストとして生きる同級生たちに気後れし、ナニーを活用して育児も仕事もセルフケアも完ぺきにこなす友人と話せば話すほどに落ち込み、自尊心はズタズタになってしまう。心身が追いつめられた母は自身の〝犬化〟を信じ込むことでぎりぎりバランスを保とうとするが、次第に行動はエスカレートしていき……。
主演のエイミー・アダムスはプロデュースも兼任しており、自分の生活を全て犠牲にした結果髪は傷み、体は太ってしまった専業主婦のリアルを熱演。犬化して肉を乱暴に頰張ったりさらに顔を突っ込んで平らげたり、泥まみれになって暴れ回ったり荒々しいベッドシーンを見せたりと、人によっては不快感をもよおすかもしれない生々しいシーンの数々に果敢に挑戦している。
ただ、こうしたある意味どぎつい描写には「ここまでやらないとワンオペ育児の真実を表現できない」という固い意志が感じられ、当事者においては救済ともなるのではないか。労働時間24時間の育児はブラック企業よりもブラックとはよく言ったもので、パートナーという一番身近な存在、あるいは生活圏内の住人・地域の共助がなければあっという間に疲弊し、孤立し、壊れてしまう。日本でも母親の約3割が産後うつの症状に陥っているといわれており、大きな課題として残されたままだ。
夫婦と育児、家族のあり方に向き合う一作
劇中、二つの重要な場面がある。ひとつは、母たちの連帯。自分が狂ってしまったのではないかという不安を抱えた主人公は、最初は苦手意識を持っていたママ友たちに吐露する。そうすると大なり小なり同じ悩み・痛み・苦しみを抱えていたことが判明する。
また、図書館の司書を務める老女は〝子育ての先輩〟として主人公の精神的支柱となる。さらには、幼少期にはわからなかった自身の母の異常な行動が腑(ふ)に落ちるといった展開も用意され、クライマックスの展開も含めて不条理の中でもがく母たちに寄り添う内容になっている。
そしてもう一つは、夫婦の描き方。「家族サービス」が死語になりつつあるように、育児は両親で協力し合って行うものという意識がいまでこそ一般的になりつつあるが、実際はまだまだ過渡期であろう。
劇中でも夫婦の口論の中で「私の仕事は無休で無償。感謝もされない」と訴える妻に対し、「君は僕が結婚した女性とは違う。自分だって失望している。僕の妻に何があった?」と怒りをぶつける夫。妻は目に涙をためながら静かに「出産時に死んだわ」と返す。この言葉はあまりにも重い。
一見すればぶっ飛んだ設定に思える「ナイトビッチ」だが、この夫婦のやり取りしかり、さまざまな家庭で生じている/生じてきたであろう不均衡と不平等、機能不全を恐るべき解像度で現出させている。
「ナイトビッチ」は、シャーリーズ・セロンが18キロ増量して育児に奮闘する母の疲労を演じ切った「タリーと私の秘密の時間」、母性信仰という〝呪い〟を破壊する「ロスト・ドーター」、パートナーの最良の協力体制を提示する「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」、あるいは男性出産をテーマにしたNetflixシリーズ「ヒヤマケンタロウの妊娠」といった作品群の系譜に連なる1本。強烈な寓話(ぐうわ)という形式で、育児問題に真摯(しんし)に向き合っている。
「ナイトビッチ」はディズニープラスのスターで独占配信中。