©2022映画「そして僕は途方に暮れる」製作委員会

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2023.1.04

何もアテにならない時、あなたは?「そして僕は途方に暮れる」:英月の極楽シネマ

「仏教の次に映画が大好き」という、京都・大行寺(だいぎょうじ)住職の英月(えいげつ)さんが、僧侶の視点から新作映画を紹介。悩みを抱えた人間たちへの、お釈迦(しゃか)様のメッセージを読み解きます。

英月

英月

度重なるお見合いに嫌気がさし、29歳で米国に家出をした私が言うのもなんですが、逃げすぎです、主人公の裕一(藤ケ谷太輔)。浮気がバレそうになり、5年間同棲(どうせい)した彼女(前田敦子)から逃げたのを皮切りに、逃げ込んだ先の親友(中尾明慶)からも、転がり込んだバイトの先輩(毎熊克哉)からも逃げます。とうとう東京に逃げ場がなくなり、北海道の実家に帰りますが、1人暮らしの母(原田美枝子)のもとからも逃げます。逃げ続けたのは、怒られることが怖く、かといって、気を使われて優しくされるのも気まずかったから。そんな裕一ですが、母と別れて家を出て行った父(豊川悦司)との偶然の再会、そしてある出来事をきっかけに自ら現実と向き合います。

映画の終盤、裕一の告白とも懴悔(さんげ)とも取れる独白がありますが、私にはその一言一言が、まるで法話のように聞こえました。このままではいけない、そう分かっていても、どうしていいか分からない。そう感じている人は、少なくないのではないでしょうか。

裕一の「自分の中で本当のことが何か分からない」との訴えは、「本当のものがわからないと、本当でないものを本当にする」という、仏教者・安田理深(りじん)の言葉を思い出させます。彼女、親友、先輩、家族、これらの人々を「本当ではない」とは言いませんが、本当のよりどころ、平たく言えば「アテ」にはなりません。

事実、アテにはならなかったから、裕一は逃げ出したのです。けれども、逃げ出すという判断をしている自分はアテにしていたのです。その自分さえアテにならないとハッキリと知らされた時、裕一はどうするのか。あなたなら、どうしますか。1月13日公開。

ライター
英月

英月

えいげつ 1971年、京都市下京区の真宗佛光寺派・大行寺に生まれる。29歳で単身渡米し、ラジオパーソナリティーなどとして活動する一方、僧侶として現地で「写経の会」を開く。寺を継ぐはずだった弟が家出をしたため2010年に帰国、15年に大行寺住職に就任。著書に「二河白道ものがたり いのちに目覚める」ほか。インスタグラムツイッターでも発信中。Radio極楽シネマも、好評配信中。