2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。
2022.11.13
「映画館のあった風景」第2回 高倉健の故郷/福岡県・遠賀川から若松へ
キーワードは遠賀川
福岡県は、地理的、歴史的、経済的特性から、北九州地方、福岡地方、筑後地方、筑豊地方の四つの地域に分けられていますが、少年時代の高倉の目に映り続けた遠賀川は、筑豊地方から北九州市、中間市、遠賀郡を流れ、響灘へと注いでいます。
明治時代から昭和30年代にかけて主力エネルギーだった石炭は黒いダイヤモンドと呼ばれ、その運搬が河川から列車に代わるまでは、川艜(かわひらた)と呼ばれた川船で、遠賀川、堀川、江川水系を通り運ばれていました。
遠賀川・遠賀川支流
川船の船頭の愛称はキリクサン。田川の言葉だと聞いています。
船頭が絶えた今、キリクサンはすっかり死語となっていますが、逆風にあえば寒い中でも水に飛び込んで船を引き、井堰(いせき)で進路の小競り合いが起きれば、腕力と度胸で先を競う。事にあたりきびきびと勇敢で、義理と人情を重んじる。
純朴な農村の人たちからみれば異質に映った船頭=キリクサンたちを、「あん人たちゃ川筋(かわすじ)もん」と呼んだと言われています。
もとは、川の流域や川岸に沿った流域をさす筑豊の代名詞「川筋」という言葉が、川筋気質(かわすじかたぎ)として語られるようになった背景です。
高倉が、その川筋気質っぷりを発揮した映画が、1969年に封切られた「日本俠客伝 花と龍」。高倉の任俠(にんきょう)映画の代表作のひとつ。
シリーズ9作目、原作は火野葦平(ひの・あしへい)「花と龍」。
「親分さん、あんたヤクザでっしょ。俺はヤクザっちゅうのは、弱いもんを助け、強きもんをくじく、よか男と聞いとりました。北九州若松のヤクザちゅうのは、ゴンゾウ甚振るのが商売ですか」
玉井組を立ち上げ港湾労働者を束ねる高倉ふんする玉井金五郎が、大親分・吉田磯吉に向かって、不正を正そうと直談判する場面でのせりふです。
舞台は、かつて日本一の石炭積み出し港としてにぎわった北九州市若松。
実は、昭和30~40年代から多くの映画撮影が行われた場所としても知られています。
最初にロケが行われたのは「残俠の港」(53年)。
その後、「伴淳・森繁の糞尿譚(ふんにょうたん)」(57年)、62年に完工した戸畑と若松を結ぶ若戸大橋が撮影された「社長漫遊記」(63年)、「宇宙大怪獣ドゴラ」(64年)、「日本大俠客」(66年)、「トラ・トラ・トラ」(70年)、「青春の門」(75年)。
「玄海つれづれ節」(86年)の劇中、「銀映館」として取り壊されたのは、中川通り2丁目に実在した映画館「第二秀瑛」でした。
高倉主演作としては2本。
「網走番外地 悪への挑戦」(67年)、「日本俠客伝 花と龍」(69年)がありました。
若戸大橋
洞海湾
動かすのは人の力
こうして、若松が多くの映画のロケ地となった背景には、二人の立役者を忘れてはならないでしょう。
一人は、「花と龍」の原作者・火野葦平(本名・玉井勝則)さん。
もう一人は、第一港運社長・岡部公輔(おかべ・こうすけ)さん。
お二人は同級生でした。
火野葦平さんは、「花と龍」の主人公「玉井組」を立ち上げた玉井金五郎とまんの長男。
38年「糞尿譚」で第6回芥川賞を受賞し、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」という兵隊3部作で、ベストセラー作家となりました。
俳優・森繁久弥、水島道太郎、殿山泰司、木下恵介監督などからひいきにされていた若戸大橋十軒長屋の飲食店の一軒、映画人が集った「川太郎」の名付け親、のれん、箸袋、マッチなどのデザインまで手掛けられ、映画人との関わりも深いのです。
玉井金五郎、まん 名刺
第一港運社長の岡部さんは、高倉のお父様が第一港運の前身、若松港運で労務担当として働いていた縁で、高倉が、旧制東筑中学時代に勤労奉仕に行っていたころから顔見知りだったとか。
映画俳優となってからのお付き合いはさらに深く、「日本俠客伝 花と龍」の撮影時、ロケ先でのスナップも残されています。
父上岡部亭蔵(おかべ・ていぞう)さんが、大正10年ごろから「喜楽館」「世界館」「帝国館」といった映画館の経営に携っていらしたことから映画業界とのかかわりが強く、公安や役所関係を含めて町の取りまとめ役となっておられ、多くの映画会社から絶大な信頼を得ていた方なのです。
製造業のまち、働く人のまち、そして映画のまち北九州市。
いまや大規模撮影の際「困ったときは北九州」と言われる日本初のフィルムコミッションの前身が、89年に北九州にできた遠因に思えます。
若松・毎日映画劇場と金鍋
映画館に話を戻せば、若松で最初に造られたのは「若松倶樂部」、14(大正3)年です。
戦前の41年には、「若松キネマ」「喜樂館」「旭座」が加わって4館があったそうで、映画館数が最も多かった64年には、門司12館、小倉34館、八幡38館、戸畑14館、そして、若松には15館がありました。
今はすべて閉館してしまった若松で、映画館関係のご子孫としてお話を伺うことができたのが、「毎日座劇場」、そして「毎日座映画劇場」を経営なさっていた料亭「金鍋」の現経営者、真花宏行(まはな・ひろゆき)さん(60)です。
真花宏行さん
真花「映画館(毎日座映画劇場)は、戦争帰りのおじいさんが造ったものなんです。
今、金鍋がある隣の敷地。広かったですね。戦争に行った先が宮古島で、そこで終戦を迎えたんです。宮古島には、戦時中米軍が上陸しなかった。終戦後上陸してきた米軍に抑留されて、米軍の上陸を阻止するために、自分たちが海岸線に埋めた地雷撤去などをさせられたと聞きました。
でもその抑留生活のなかで、映画を見せてもらったんだそうです。
そこで、おじいさんは、初めて洋画を見たわけです。
『カサブランカ』とか、『市民ケーン』。それは、もう感動したらしいです。
なかでも一番だったのが『風と共に去りぬ』。
これは、シネマスコープ、カラーだったんですよ!
映画の最後の夕日を見て、大感動!!
それで、『こんなすごい映画を作る国とよく戦争したな』と。
それから、おじいさんは宮古島で米兵と仲良くなって、映写技師さんの手伝いをするようになったらしいです。
47年に帰宅できたときは、すっかりアメリカかぶれになって、アメリカのチョコレートだとかを持ち帰って。
おじいさんは、料亭の3代目でした。親は跡取りが無事に帰ってきたと、これで料亭をもり立てていってくれるだろうと考えていたら、なんと、ここ金鍋の隣にあった芝居小屋を潰して、洋画専門の映画館を建てたんです。48年ですね。
料亭はほったらかして、奥さんに任せて。
自分は映画館。
面白い写真が残ってるんですが、『黒い牡牛』(56年)っていう映画の宣伝のために、町中を黒い牛を連れて練り歩いたりしてるんです。
『拳銃無宿』(58年)のときは、輪タクにポスターを張って、町中を歩く。
料亭の建物にも、ポスターを張って。好きだから、いろんなアイデアが出るんでしょう。こういうことをやってるんですね」
「黒い牡牛」ポスター
宣伝風景
真花「確か、米軍のお友達も来日されて、私が幼稚園生のころなんです。
覚えてるんですよ。
映画が斜陽になってきて、割とスパッと切り上げて、閉館したのが73年ですから、24年間続きましたですね。そのあとは、真面目に料亭の仕事をするようになりました(笑い)。
私は、母親に連れられて、映写室に入って、大きな機械が大きな音を立てているのを記憶してますね。だから映画の影響を受けて、大学を出てから、埼玉の大宮(現さいたま市大宮区)にある「小川ゴム」に2年、原型絵師として。それから、「モンスターズ」っていう特殊メークの会社に入りました。8年ほど。手先が器用だったので、仕事はとっても楽しかったですね。
思い出に残ってるのは、黒澤明監督の『八月の狂詩曲(ラプソディ-)』(91年)でしょうか。滝つぼのなかを泳ぐ蛇を作らせていただいたんです。蛇がどんなふうに泳ぐかを聞いたとき、黒澤監督がこんな風に泳ぐんだと、絵に描いてくださって。1秒ほどのシーンでしたが、蛇を5パターンほどご提案させていただいて、とても気に入ってもらえたんです。あの時は、ホテルに帰って泣きました!
ところが、父が病気になって、金鍋を継ぐことになったんです。
金鍋の名前は、金の鍋で料理していたことが由来です」。
金鍋・外観
真花「私が金鍋を継いでからも、岡部(公輔)さんには、とても良くしていただきました。『花と龍』のときも、健さんをうちの店に連れてきていただいたりとか。
片岡千恵蔵さんもご一緒で、そのときは、千恵蔵さんがお一人目立っちゃってて。
健さんの印象は、静かな人だったなあと。
あんまり覚えてないんですよ。酒も飲まずに飯だけ食って帰ったって(笑い)」
金鍋は、1910(明治43)年に建てられた料亭、入り母屋造り妻入り形状の木造建築です。
そもそもは、真花さんのひいおじいさんが、幕末の混乱期、修業に行った大阪の薬問屋が、いきなり牛鍋屋への商売替えに。それが大繁盛したので牛鍋修業に切り替えて、地元・九州に戻り、軍人の街・小倉港でお茶屋のような掘っ立て小屋での牛鍋の商売を始めたところ、小倉城の第14歩兵連隊・乃木希典などに牛鍋がうけて大繁盛。
1895年若松に移って、料亭を開いたものの大火に巻き込まれ焼失。
現在の建物は、10年に建て替えられた二代目。
真花「この建物を守り抜くため、ひいおじいさんとひいおばあさんは戦時中も疎開することなく、屋根に砂袋をおいて、焼夷(しょうい)弾が落ちるとその砂をかけてね。ここは、近くに八幡製鉄があって頻繁に空襲を受けたんです。そのひいおじいさんは、敷地に落ちてくすぶっていた焼夷弾を取り払おうと、素手で放ったとき、ガソリンのようなものが体にかかって大火傷を負って。終戦後、亡くなりました。だから、ここは、ひいおじいさんが命懸けで守った店なんです。先祖が、体を張って守り抜いたここを、使い続けることが私の使命ですね」
「福岡県自治産業史」37年によれば、金鍋をはじめとして、料理店は48軒あったとのこと。
今や、料亭は金鍋のみ。
黒壁しっくいの外観、3階建ての金鍋には、2階に「葦平の間」「龍の間」「花の間」「広間」、3階に「柳の間」など、代変わりした真花さんが名付けた各部屋は、宴安に華を添える色気ある意匠が随所にちりばめられています。
金鍋・内観
特に、印象的なモチーフは、蝙蝠(こうもり)です。
夜の商い、そして夜の守り神の象徴でもあり、「蝙蝠」の中国読みが「福」に通じるとされることから、縁起の良い言葉なのだと知りました。
蝙蝠の意匠
そういえば、「日本俠客伝 花と龍」最後の舞台は、金五郎(高倉)が伊崎組と対決する料亭飛雪。建物の門両側3尺の小壁に、逆さ蝙蝠が意匠として使われていることを思い出しました。
今となっては確かめようもありませんが、もしや当時の美術の藤田博さんは金鍋さんに触発されたのではなどと、想像が膨らみました。
若松・旭座跡地
料亭金鍋を背にして、中川ストリートを挟み、現在向かい側の駐車場になっているところには、明治29年に大衆演芸場として造られた「旭座」が建てられていました。
地元若松区修多羅(すたら)に生まれ育ち、町のDNAを知る玉井行人さんは、「今、駐車場となっているここでは、劇場の面影をまったくうかがい知ることはできませんが、この壁は映画館があった当時に一緒に作られた壁で、鉱滓(こうさい)れんがと、皆さんが煉瓦といえば思いうかべることができる普通の赤いれんが、2種類を使って作られている珍しい壁です。鉱滓は鉄を作る時にできる副産物で、焼かないのが特徴です」と、熱く語ってくださいました。
鉱滓れんが壁
旭座跡
玉井さんは、元西日本新聞執行役員北九州本社代表を経て、現在は、サッカークラブチーム、J3ギラヴァンツ北九州社長。
「玉井組」を立ち上げた玉井金五郎の次男政雄氏のご長男で、火野葦平(本名:玉井勝則=金五郎の長男)のおい、2019年にアフガニスタンで凶弾に倒れた医師、中村哲さんとはいとこです。
玉井行人さん
若松駅
若松駅・セム1石炭車
玉井「僕らが小学生の頃、映画に行くときには学校に届け出が必要だったんです。小学生から中学生にかけてのころは、若松には、洋画専門、邦画館と分かれていて4~6の映画館がありました。
「ガメラ」「東映漫画祭り」「杜子春」「座頭市」「ガッパ」「ハレンチ学園」…。
おやじと一緒に見に行くときはなぜか上映途中から見て、休憩時間になると、おやじから『どんな事件だったかわかるか? 言ってごらん』と、質問されるんですよ。
結果をみて類推する能力が嫌でも高まりました。
自然とエビデンスを積み上げる能力や物事を客観的に見る癖がついて、これがもとで、新聞記者になろうと思ったんです」と、お父様との映画館でのやり取りが、その後の人生に大きく影響していたことをお話しくださいました。
九州の最北端に位置する北九州市は、南部に雄大な山々が広がっていて、そこから見下ろすと、関門海峡を挟んで響灘と周防灘の美しい海岸線が見えます。
高塔山からの風景
玉井「1901年、官営八幡製鉄所が創業しモノ作りの街として劇的な発展を遂げました。日本の経済成長に貢献する一方で、工業地帯の負の面として、50~70年代にかけては深刻な環境汚染問題に直面しました。
木下恵介監督の「この天の虹」(58年)にも描かれてます。
60年代は、煤煙の空。洗濯物に穴が開いたんですよ。
『青い空を返せ!』って、お母さんたちが運動をおこしました。
80年代に入って環境再生に成功して、深刻な公害問題を乗り越えたので、SDGsのモデル都市として、今や世界から注目を浴びているんです」
今、青空を取り戻した町は、さまざまな年代ごとに映画のロケ地となったことで、町の姿をさかのぼることができるのです。
今回、失われた映画館を追いながら、町の記憶や証言を興味深くたどることができました。
中山博雄様(若松探検隊)、玉井素香様、真花聡子様、利島康司様、旧古河鉱業若松ビル館長・若宮幸一様、映画館の資料検索等は、門司港にある松永文庫、所長代理凪恵美様にお力添えいただきました。
心から御礼申し上げます。
イラスト 梅田正則
プロフィール
48年、新潟生まれ。テレビ・映画美術監督。
テレビドラマ「北の国から」「踊る大捜査線」「ロングバケーション」「これから~海辺の旅人たち~」(主演:高倉健)、「若者たち2014」ほか数多くの作品の美術監督をつとめる。22年、実写世界からアニメに挑戦。69~74歳まで6年かけて「ケンタのしあわせ」(3分55秒)を、梅田正則監督作品としてついに完成させた。