「ほかげ」©2023 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

「ほかげ」©2023 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

2024.1.14

「ほかげ」で思うシベリア抑留生還大叔父の〝傷〟 戦争体験という不治の病

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

井上亜美

井上亜美

2024年。今年は終戦から79年にあたる。日常的に戦争や紛争のニュースを耳にする今の状況を、本当に戦後と呼んでもいいのか疑問が残るものの、遠い存在のように感じていた戦後を、あらためて背後に感じるような映画を見た。塚本晋也監督の「ほかげ」だ。

 
 

思考を求める沈黙

物語の舞台は終戦直後の東京。戦争で夫と子を亡くし、焼け残った居酒屋で身売りをしながら暮らす女性(趣里)がいた。やがてその居酒屋に、復員兵の若者(河野宏紀)と戦争孤児の少年(塚尾桜雅)が出入りするようになる。3人は疑似家族のような間柄になるが、それぞれが抱える戦争のトラウマが癒えることはないまま、彼らの関係は崩れてしまう。その後、少年はある仕事のため、片腕の動かない男(森山未來)と行動を共にするようになる。その道中や目的地で出会う人々もまた、戦争体験という不治の病を抱えていた。
 
登場人物たちに名前はない。人柄が分かるような会話も少ない。ときおり出てくる沈黙が、鑑賞者に何らかの思考を求めているようだった。映画を見て、戦時下や戦後の人々の悲惨な状況を知ろうとしても、受動的な受け止め方しかできていなかったことに気付かされた。


優しさを犠牲にさせられた時代

「戻って来れなかった兵隊さんは 怖い人になれなかったんだよ」
 
かつて一緒に暮らした復員兵について、戦争孤児の少年がそうつぶやく場面がある。あどけない言葉でも、そこには確かに優しさや美徳を犠牲にしなければならない時代があったと気付かされる。「怖い人」とはどういう人なのか。少年は多くを語らない。それは私のような、戦後を知らない若者世代に向けた問いかけのようにも感じられた。

戦争に終わりがあったとしても、個人の戦争体験に終わりなどない。生や喪失に対する執着を切り離すことができないまま、生き残ってしまうつらさ。生き残った以上、職や食べ物にありつき来る日も来る日もしのがなければならないという絶望感。眠るたびに、特定の音を聞くたびにトラウマに支配され続ける恐怖。経験したことのないような感情や場面だが、俳優陣のふるまいを前に、私自身もその場に当事者として立ち会っているかのような感覚を覚える。

その記憶に生涯苦しむ人もいる。果たしてその人は「生き残った」と言えるのだろうかと、映画を見ながら考えさせられた。戦争が終わっても、戦地から帰っても、それは決してけじめにはならないのだ。命を落とした人だけではなく、戦時下を生き抜いた人の精神的な核をも破壊する。それが、戦争がもたらす本当のおそろしさだと実感した。

戦後について、「平和」「復興」「経済成長」のような言葉で説明されることも多く、国や人々の生活が発展していった時代だと学校で習った記憶がある。だが、教科書に太字で書かれていることばかりではない。戦争によって失ったものを人々が取り戻そうとする、その悲惨さにも目を向けなければ、戦争のおそろしさを誤解したままになると思う。


大叔父は「怖い人」になったのか……

映画を見て、思いだす人がいる。4年前に亡くなった私の大叔父だ。彼はシベリア抑留の帰還兵だった。軍の通信業務に携わっていたが、敗戦とともにシベリアに抑留された。日本語とロシア語を使えたため、抑留後もソ連軍に重宝されたそうだ。「ハラショーラボータ(素晴らしい働き手)」と呼ばれていたと誇らしげに話していたと、彼の娘である叔母から聞いた。抑留時の話をする時も、話し好きな大叔父らしく明るい口調だったが、決してきれいな話ばかりではなかっただろう、と思いながら叔母は聞いていたそうだ。

大叔父も、きっと自分の娘に話すことと話さないことを慎重に区別していたことだろう。ソ連兵に近い立場だったため、半ば取り入る形で仕事をもらい、他の兵士よりも優遇を受けるいっぽうで、苦しい労働の中で力尽きようとする戦友を見殺しにしなければならない場面もあったと想像する。帰還したのち、地元の役所の職員や市議として活動した大叔父。その生きざまや葛藤を思うと、「ほかげ」で少年が言った「怖い人になる」ことの意味を、なんとなく理解できるような気がする。

今の時代を生きるような考え方では心がもたなくなるような場面をくぐったからこそ、戦後もまっすぐに、激動の時代を生き抜いたのかもしれない。大叔父の経験を美談にするつもりはないが、はってでも生き抜こうとする意思の有無が、その後の精神の方向性を分けたのだと考えると、物語の見方はまた変わってくる。

未来への祈り感じるラストシーン

「ほかげ」の最後のシーン、自身にとっての家族を2度失いながらも、少年が過酷な戦後を自力で生きぬくと決意する場面からは、監督のこれからの時代に対する期待のような、祈りのような、前向きなメッセージを感じられる。現在もなお、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルとパレスチナのハマスとの戦闘など国外の悲惨なニュースに触れる度に、非力な私たちにできることなど限られているように思えてしまう。
 
今戦地で傷ついている人だけでなく、生き残った人々の心にも一生傷を残すもの、それが戦争なのだ。塚本監督の手によってよみがえったその教訓を、鑑賞にとどめるのではなく心につなぎとめておかねばならない。それが戦後に生きる私たち若い世代の責任だと、そう強く思った。

ライター
井上亜美

井上亜美

いのうえ・あみ 2002年鳥取県生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修在学中。23年5月より毎日新聞「キャンパる」編集部学生記者。

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