「シチリア・サマー」© 2023 IBLAFILM srl

「シチリア・サマー」© 2023 IBLAFILM srl

2023.12.02

同性愛と左利き〝いけないこと〟ですか? 「シチリア・サマー」で思い出した怒りと悔しさ

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

井上亜美

井上亜美

自身の感情に素直でいたために、差別や嘲笑、暴力の標的になり、家庭が壊れることがあってもいいのだろうか。1980年代のイタリアにおける同性愛のゆくえを描く「シチリア・サマー」を見て、考え込まずにはいられなかった。ただ愛を注ぐ対象が異なるだけで、人はなぜこんなにも残酷になれるのか。なぜこんなにも悲しい結末を選べるのか。実話がもとになっている話だと知ると、余計に悔しさを覚えた。

 

1980年代イタリア 許されない愛

作品の舞台は82年、夏のイタリア。地中海に浮かぶシチリア島でそれぞれバイクを走らせていたジャンニとニーノは、出合い頭に接触事故を起こす。その事故を機に交流を始めた2人は、育ちも性格も異なるものの、互いにひかれあうようになる。2人はかけがえのない時間を過ごすが、ある日を境に交歓の日々は終わりを迎える。この物語は80年のイタリアで起きた実話がもとになっている。当時のイタリアを驚愕(きょうがく)させた、愛し合う2人の若者の命が失われた事件は、イタリア最大規模のLGBTQに関する非営利団体「ARCIGAY(アルチゲイ)」が設立されるきっかけにもなった。それから40年の時を経て映像化したものが本作である。
 
シチリアの美しい自然や、2人の気持ちの高ぶりを象徴するような花火の描写に思わず見とれる一方、その間にさりげなく挿入される描写が残酷で重いものだった。もともと同性愛者であるジャンニが「治療」のために矯正施設に入れられていたことや、彼のことを知ったニーノの家族が普段の穏やかさを失い、ただただ憎悪に駆られる場面からは、当時の同性愛に対する視線の冷たさがうかがえる。同性愛者であることを以前から周囲に知られていたジャンニが陰湿ないじめを受けていたり、自身の嗜好(しこう)を「友達を破滅させる」ものだと言われたりする姿には、握った手が震えるような怒りを覚えた。


自分の感情にうそをつかなかった2人

けれど、その怒りをどこに向ければいいのか分からなかった。現代でこそLGBTQに対する理解や支援が広まっているが、時代をさかのぼれば、何を責めるべきかわからないほどの深い溝が当事者とそうでない人々の間にあったのかもしれない。ゆえに、ジャンニやニーノに心無い言葉を浴びせた人物たちや、それを包摂する当時の社会制度を単に批判することもできないと考えた。
 
だが、彼らの不遇を「しょうがなかった」とは決して受け止めまい。私にだって「こんなこと言われたくない!」と思うところもある。だからこそ、周囲から何を言われようと自身の感情にうそをつかなかった2人の姿に、より心を揺さぶられるのだ。


クラスメートの言葉に衝撃

彼らの抱えたものに比べると本当に小さなことだが、私は自分自身が左利きであることに対しコンプレックスを抱えていた。両親は右利きだったが弟も左利きだったため、小学校に入学する前までは利き手にそれぞれ違いがあることに違和感を覚えることはなかった。
 
だが、入学してしばらくたった頃、クラスメートにこんな言葉を投げかけられたのだ。
 
「それ、いけない手だね」
 
自身もかつて左利きだったが、右利きに「矯正」されたと話す友人。私の父も左利きから右利きにされたと聞いていたため、そんな人もいることは知っていたが、「いけない手」などという考えは既にないものと思っていた。では彼や父も「いけない手だ」と言われながら慣れない右手で文字を書き、箸を持ったのだろうか、右手が使えないと笑われるのだろうか。


習字教室で「矯正」までに10年

そんな不安に駆られたことがきっかけとなり、小学2年生の頃に習字教室に通い始めたのだった。だが、習字を習えばすぐに右手で文字が書けるわけではない。同じ学年の友人が日に日に上達していく中、筆を持つと手が震え、思い描いたような文字がいつまでも書けない自分にいらいらしたこともあった。そんな努力を10年以上続け、右手でも文字を書くことができるようになった。それでも、ペンを右に持ち替えると当時の苦労や悔しさをふと思いだすときもある。
 
その他の場面でも、左利きは努力が必要だと実感することは多かった。中学生の頃に所属していたバドミントン部では、フォームひとつをとっても右利きの先輩と左右対称で身につけなければならず混乱した。その頃から左右誤認の症状を自覚するようになったし、利き手が違うだけで繊細だの天才だのと決めつけられたりすることに、いちいちストレスを感じるようにもなった。そんなささいなことでも、否定されたり「自分だけ他の人と違う」と思いこんだりすることで簡単に自信は無くなってしまうものだ。だからこそ、左利きをひとつの個性と受け止め、守ってくれた両親には感謝している。


 

自分らしく生きるには

多数派の無意識のうちに、集団から排除される個性も確かにあったのだ。それが私の場合は利き手で、彼らの場合は誰を愛するか、何を好きになるかといった感情だった。私は両親の理解によって救われた部分もあったが、ジャンニとニーノは家族からも拒否され、〝普通〟でいるよう強要された。だからこそ、2人が異分子のように扱われていた場面が、私にとってはひどくつらかった。生まれ持った個性や特徴のちがいを否定することが社会であり、家庭の役割なのだろうか。そんな疑問を覚えるとともに、私は初めてこの物語の、そしてモデルとなった事件の「重さ」を実感することができた。
 
ジャンニとニーノの決断は、周囲からの視線を苦にしたことが理由ではないと思う。誰も知らない場所に行くだとか、互いのことを忘れそれぞれの生活に戻るだとか、別のやり方を選択することだってできただろう。しかしどこへ行ったとしても、属性により規定される「好き」や「愛」のあり方から逃れることはできないと彼らは分かっていたのだろう。
 
周囲の無理解や偏見と、自分らしくありたいという欲求の板挟みになって、もがきながら生きるのは苦しい。「◯◯であれば△△であるべきだ」という暗黙の了解から、私たちはなぜ抜け出すことができないのだろう。そして、周りにそんな他者がいた時に、彼らの理解者でいることができるか。改めてその覚悟が問われているような気がした。

ライター
井上亜美

井上亜美

いのうえ・あみ 2002年鳥取県生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修在学中。23年5月より毎日新聞「キャンパる」編集部学生記者。

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